せずに、これを土佐光茂に頼んだということは、簡単にこれを出来心とのみ解釈するよりも、彼の浄土教好尚のおもむくところに従ったのだとする方が、むしろ適切な説明ではあるまいか。けだし実隆は縉紳《しんしん》中の流行《はや》り役者であり、蔭涼軒は武家社交界の中心であった。しかして実隆は武家からも尊敬されて、しばしば柳営に出入した。しかるに不思議にも実隆と蔭涼軒とはほとんど没交渉である。『実隆公記』に蔭涼軒の名の見えているのは、たんに一か所だけであったと記憶する。両者の日記は、東山時代を説明する絶好の二大史料であるが、両者ともおのおの別世界の人であるかのように、自己およびその周囲を叙している。史家からして見れば、そこにまた面白味があるので、これを対照することによって、浄土的な実隆の面影も、さらにいっそう判明になり得るのだ。
 実隆はその情緒を浄土宗的信仰によって養った。しかしながら宗教心のみで文学者ができるものではない。実隆がその詞藻を養うためには、またそれだけの修養を積んだのである。歴代の歌集をば、読みもし写しもしたのみならず、いわゆる和学の書で古典とも称すべきものは、ほとんど残りなく渉猟した。
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