勢力ではなかった。狩野派の絵画と禅味との関係も、しばしば論ぜられることではあるが、絵画は当時まだ狩野派の独占に帰しおわったのでなくして、土佐派というものになおかなりの余勢があった。一概に評し去るのは如何《いかが》わしいけれど、もし狩野派の絵画をもって、禅的気分に富んだものとなし得べくんば、足利時代の土佐派をもって浄土気分のあるものといい得るかも知れぬ。少なくも浄土教が、狩野派よりも土佐派の方に相応《ふさ》わしいとはいい得るだろう。わが国の肖像画というものは、足利時代に始まったのではないけれど、主としてこの時代から流行したもので、土佐派でもこれを画けば、狩野派でもこれを画いた。武家の側の、主として影像を狩野派に描かした事例は、『蔭涼軒日録』に数多く見える。禅僧の肖像とても同様多く狩野であった。実隆は交際の広い人であって禅僧にも、近づきがあったのみならず、画人において土佐派のみを知って狩野派を知らなかったというのではない。現に太田庄へくれてやる扇面の画をば、狩野家にも頼んだ例がある。しかるに旦暮|仰瞻《ぎょうせん》しようという法然善恵の肖像を、武家の顰《ひそみ》にならって狩野家に頼むことを
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