らぬ。長子誕生の初め、春日大明神に奉ることを祈念したというからには、あるいはそのためかとも思う。
理由はともかく第二子公条は相続人と定まり、その兄は出家することになったが、場所は春日大明神の管領する大和国内でなければならぬというので、最初は興福寺を望んだが、都合がつかなかったので、東大寺の勧学院に入れることにし西室と称した。入室以来いっこう学問に身が入らず、実隆も心配しておったが十三歳のとき文殊講をやり、その所作神妙で諸人感嘆したというので、先ず大いに安心した。その得度《とくど》して名を公瑜と号することになったのは、翌々明応七年十五歳の時である。この間に公条の方は次第に昇進し、明応二年には美作権介《みまさかごんのすけ》を兼ね、三年には従五位上、六年には十一歳で元服、右近衛権少将に任ぜられ、七年の十二月ちょうど兄の得度する少し前に正五位下に叙せられた。それからして父実隆の致仕《ちし》した永正三年までに、位は正四位上まで、官は右近衛権中将を経て蔵人頭となった。いま一息で公卿補任中の人となるのである。
諸種の事態が輻湊《ふくそう》して実隆の辞意を決せしめた。日記永正三年正月二十七日の条に
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