それでもこの種のことが絶無であったとはいえない。また各藩の士族はその藩主なる諸侯の臣下たるにおいて一様でありながら、低い階級の士族は高い階級の士族に依り、その出入りとなり、役人をもやった。公卿においてもやはり同様で、身分の高くない公卿は、五摂家などに出入りしてその家職となり執事となった。一方においては低いながらも朝廷の官職を有する一廉の公卿であるかと思うと、それと同時に他の朝臣の使用人となっておったのである。しかしてこれは徳川時代に限ったことではなく、それ以前においてもそのとおりであった。唐橋在数は大内記という官を帯びた朝臣で、同時に九条家の執事であったのである。その執事としての勤めぶりが毎事緩怠至極で不義の仔細連続したという理由で、准后すなわち九条政基は目通りを止めておいた。ところが、七草の日に在数は無理に九条家に出頭したので、九条政基ならびにその子すなわち実隆の女婿《じょせい》たる尚経は、この在数を斫《き》り殺した。二人とも下手人であるともいい、あるいは父なる准后一人が下手人だとも、または尚経一人の所為《しょい》だというが、その辺はたしかでない。殺した方に理があるか、殺された方に理があるかは、一方の死んでしまった後に、分明にし得べきことでない。九条家では不届な家職を手打ちにしたというのであるけれど、それは私事で、朝臣たる大内記唐橋在数を、同じく朝臣たる九条家父子が殺害したことにもなる。おまけに在数は当時あたかも菅家一門の公卿の長者であった。そこで菅家の連中が承知せぬ。一族の協議会を開いて申状を認め、公然と出訴におよぶことにした。一族中には九条家の威勢に畏れて首鼠《しゅそ》両端の態度に出でた者もあったけれど、多数はこれに連署した。菅家以外の公卿も多くは九条家に同情しなかった。この刃傷沙汰は朝廷としても捨て置かるるわけには行かなかったので、遂に子の尚経の方に責を帰し、その出仕を止められた。そうなると世間の手前もあり、舅たる実隆も公然九条家に出入することもできず、そのために遂に四年間も無沙汰をしたのである。この無沙汰中に娘保子は男子を産んだのであるけれど、実隆は初孫の顔を見る機会を得なかった。ところが明応七年十二月の十七日に、尚経の勅勘ゆるされて出仕することになったので、実隆も大手を振って九条家を尋ね得ることとなり、その翌日早速訪問に及んだ。婿の出仕祝と無沙汰の詫《わ
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