び》とを兼ねたのであるが、ついでに保子が生んだ九条家若公のいたいけな姿を見、その容儀神妙なるを喜び、馳走を受け、前後を忘るるほどに沈酔して帰宅したとある。ことわっておくが、この時の若公というのは、後に関白になった九条植通ではない。植通の前に生れて出家し、別当大僧正経尋といった人である。
 かかる間に実隆は明応の二年に従二位に叙せられ、それからして九年を経て文亀二年に正二位に叙せられた。それからして永正三年に至るまでに、官位共に変動がない。越えられて都合のわるい人に越えられたのでもなく、憤懣するほどの理由とてはないのであるけれども、彼の権大納言たること、長享三年以来足かけすでに十八年の久しきに及んだ。ずいぶん退屈しないでもない。父公保も内大臣までは昇進したから、自分もそれまでは進みたい。今までは闕位がなかったからいたし方もないが、前年の二月に左大臣公興がやめたので、くり合わせのやりようによっては、内大臣に空位を作ることも不可能でなくなった。のみならず舅教秀の歿した明応五年の九月と十月と、二度に吐血し、七年の十月にまた吐血をしてから、とにかく体がすぐれない。一方において子の公条は、年齢も二十に達し、順序よく昇進を重ねて来ている。それにはもはや心配がない。そこでこの辺でもって引退しようと決心したが、さていよいよ引くとすると、花を飾って引きたくなる。
 ここでちょっと実隆の相続人たる公条のことについて説明しよう。公条実は実隆の嫡子ではない。文明十六年に生まれ、公条よりも三歳長じている兄があった。しかるに実隆はこれに家督を相続させない。その理由は、実隆みずからその日記において語るところによると、抜群の器量でもない子は、強《しい》て相続させたところで、笑を傍倫に取るのみで、その益ないことであるから、息子が何人生れようと、皆ことごとく釈門に入れようと、多年思慮しておったのである。しかしながらまたよく考えてみると、近ごろ世間には、数年断絶したことの知れている家を、縁《ゆか》りのない他氏他門から、勝手に相続することもある。いま自分が名を重んじて跡を断ったからとて、後になってどんな者に相続されるかも知れない。また自分の子を釈門に入れたからとて、それで永く家が断えるともきまらぬというのは、近ごろ出家した者の還俗《げんぞく》首飾する例が多いのでもわかる。なまじいなことをして、狗《く》をもっ
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