が、実隆と幕府とを結び付ける有力な原因をもなしたのかも知れぬ。しかるにこの教秀は役儀がら幕府に接近したのみではなく、それよりも密接な関係を皇室に結んでおったのである。というのはこの教秀の二女に房子というのがあって、これは後土御門院の後宮に召し出された。いわゆる三|位局《みのつぼね》というのがすなわちこの房子で、大慈院宮と呼ばれた皇子、安禅寺宮と称せられた皇女、共にその出である。この三位局の誘引で、三条西家の奥向きの人々が、賀茂の山に躑躅《つつじ》歴覧のため出かけたことなどが実隆の日記に見えている。三位局は実隆の室の姉に当るのであるが、外にまだ一人の妹がある。これは藤子というので、後柏原天皇の後宮に召され、後奈良天皇および尼宮大聖寺殿の御生母であって、准三后、豊楽門院というのがすなわちそれだ。かくのごとく実隆がその室家の縁からして、二代の天皇と特別の関係があったのであるからして、したがって侍従をも久しく勤めることになったのであろう。実隆がその女を九条家へ嫁し得たのも、あるいはかかる事情が助けたのではあるまいか。
三条西家は公卿の中で、決して低い階級に属すべきものではなかったけれど、さりとて九条家と並ぶべき家ではない。しからば実隆の娘保子が九条尚経に嫁したのは、異数の例であるかというに、それはそうでなく、九条家の家長または家長たるべき人の正妻は、多くこの程度の家から嫁入っている。されば三条西家から娶《めと》ったとて、九条家の格例を破ったのではないが、嫁にやった三条西家にとりては名誉のことだ。しかるに保子が尚経に嫁したのは明応四年(一四九五年)のことであるに、実隆の方から遠慮してほとんど九条家に出入しなかった。これは実に九条家に対する遠慮もあるほかに、別の事情があったのだ。というのは保子の嫁入した翌年の正月早々に、九条家においてその家礼すなわち執事の役をしておった唐橋|大内記《だいないき》在数が殺害された事件があったからであろう。そもそも二重の服従関係ということは階級制度の行なわれた時代に往々あることで西洋にも珍しからぬが日本にも多々あった。大小を論せず、諸侯たる資格においては同等でありながら、小諸侯は大諸侯に対してほとんど主従のような関係を結ぶなどはその一例である。徳川時代には幕府の勢力はなはだ旺盛で、諸侯の間にかかる関係の生ずるのを禁遏《きんあつ》しておったけれど、
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