夫一座の猿楽で、中にも児舞は最も興がられた。大黒衆の拍子というのもあった。観世太夫の弟で、遁世して宗観と称した者がまかり出でて、尺八、音曲、太鼓等を御聴に達したこともある。旧遊女で後尼となり真禅と号した女が、曲舞を演じたこともある。幸若《こうわか》の流を汲む越前の芸人が上洛して、二人舞というを御覧に入れたこともある。また昔からありきたった傀儡子《くぐつし》が、宮中でもって輪鼓、手鞠等を興行したこともある。曲舞《くせまい》の児の上手を叡感あらせられて、扇を賜わった時に、実隆が仰せによって古歌を認めて与えたこともある。これによって見ると、能狂言の少ない点だけが朝廷の好尚の武家と異るところで、その他にいたってはほとんど差別のなかったことがわかるだろう。日記文亀元年四月七日の条に、内裏の女中衆が今熊野の観進猿楽を見物に出かけたことを叙して、故大納言典侍の在世中は、後宮の取締りも厳重であったが、その後自由になり過ぎたと記しているけれど、外出はできなくとも、宮中にも相応の慰めがあったのである。
実隆が侍従として朝夕に禁闕に出入し、ますます眷顧に浴することが深くなるにつれて、時々の賜わり物も、他にすぐれて多かったようである。毎年灰方の御料所からして年貢米が納まると一俵を実隆に賜わることがほとんど恒例のようになっており、実隆の方からは、年々の嘉例として六月に瓜を進上した。この瓜はその領地なる御牧からして持参するのであるが、延徳三年のごときは、この美豆御牧が水損で瓜もとれぬ。しかし嘉例である瓜を進上せぬも残念であるというので、人を京都中に走らし、瓜を求め出して献上した。ただしいつもならば親戚知者にも配るのであるけれど、この年はそれだけは見合わせたと日記に見えている。実隆はまた庭に葡萄《ぶどう》を植えたとみえて、延徳元年の八月にこれを始めて禁裏に献上しているが、ちょっとわからぬのは、庭の榎の樹を斫《き》って薪にした時に、三把を禁裏に進上していることである。薪三把の献上はいかにもおかしいが、これをも差し上げるくらいならば、けだしほかにもいろいろなものを献上しただろうと思われる。
かくのごとくしていやが上に濃く成り行く宮廷と実隆との間は、一は実隆の姻戚関係にも基いているのである。実隆の室家は前にも述べたとおり、勧修寺贈左大臣教秀の三女である。さればこの教秀が伝奏を勤めておったということ
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