京都の兵乱を避けて大津・坂本に居を占めた公卿もあったし、また京都にすら多く見出し難い普請《ふしん》の立派な酒屋もあって、京都から遊士の出かけること頻繁であったので、実隆も江州には時々出向いた。
 実隆の官歴は文明五年以来とどこおりなく進んだ。まる二年と間を隔つることなしに、官もしくは位が高まった。しかるに文明十二年の三月に、権中納言になり、翌月侍従兼務となってからというものは、四か年ほど何の昇進もない。以前は人を超えて進んだけれど、今度はかえりて人にこさるるようになった。実隆も少し気が気でない。文明十六年の正月朔日に、「今夜節分の間、『般若心経』三百六十余巻これを誦す。丹心の祈りを凝らす」、とあるは、その辺の消息を語るものであろう。しかるにその年も何の沙汰とてなく、十七年の二月に至りてようやく正三位となった。官は依然として動かない。長享三年二月に至ってようやく権大納言となったが、その延引したのにすこぶる不平であった。昇進を賀する客が済々焉《せいせいえん》とやって来るけれども、嬉しくもないと日記に書いている。しかしながら文明十二年以来彼を超えて進んだのは、みな彼よりも年上の者ばかりで、権大納言になった時には、また上席の者六人を飛び越しての昇進であるから、彼にとりてはめでたいという方が至当だろう。
 実隆の立身は実隆の思い通りに行かないとしても、はなはだしく坎※[#「土へん+可」、第3水準1−15−40]《かんか》不遇を歎じなければならぬほどでないことは、上文に述べたごとくであるのみならず、実隆は他の公卿に比して天顔に咫尺《しせき》する機会が多かった。これは彼が侍従の職にほとんど絶え間なくおったからで、しかしてその侍従として久しく召仕われたのも、畢竟ずるに彼の文才抜群の徳のいたすところであったろうと想像される。さてこの文才の秀でた実隆が、侍従として朝夕奉仕し、たんに表立った儀式に臨んだのみならず、内宴その他の宮中燕安の席にも陪し、その光景を日記に書きしるしておいたのが、これまた後世の人に教うるに、当時の九重の奥にも、いかに下ざまに流行した趣味好尚が波及しておったかをもってする貴重なる史料で、換言すれば日本の文化史に、大なる貢献をなしているのである。いま読者の参考に資するために、実隆が陪観したという遊芸の重《おも》なるものを挙ぐれば、京都のものでは、七条辺に住居した西川太
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