する。前回にもしばしば述べたとおり当時の公卿はしばしば遍歴をやったもので、その主なる動機は生活の困難から来たのであるが、実隆は台所向きずいぶん困難であって、殊に文明十九年ごろは「当年家務の儀毎事期に合わず」と日記に書いているほど難渋したのであったけれど、しかしながら遍歴をしなければ立ち行かぬほどの貧乏でもなかったのであるから、この種の旅行をばやらなかった。故に彼の旅行の範囲は極めて狭いものであった。けれどもさすがは実隆だけあって、その旅行の記事がなかなかおもしろい。奈良に最初行ったのが文明十年で、春三月花のまさに散らんとするころであった。落花を踏み朧月《おぼろづき》に乗じて所々を巡礼したが、春日《かすが》山の風景、三笠の杜《もり》の夜色、感慨に堪えざるものがあったといっている。二度目に出ている奈良旅行の記事は、実隆の長子で東大寺公兼僧正の弟子となり、西室公瑜と称した人が、京都から奈良に戻る時に同道した際のことで、明応五年閏二月中旬、花の早きは散り遅きは未だ開かぬころであった。宇治に近く三条西家の荘園があるので、奈良行きの時にはそこで中休をするの例であり、この時も南都からの迎馬に宇治で乗りかえ、黄昏奈良に着したのであるが、今見てすら少なからず感興をひく春日社頭の燈籠が、すでに掲焉《けちえん》とともっており、社中の花は盛りで、三笠山の月が光を添えた。この行はもと単に奈良のみでなく、大和めぐりを思い立ったのであるから、奈良に数日滞在ののち芳野に向い、道を八木市場から壺坂にとった。夕陽の時分芳野に着いて見ると、まだ花は盛りで腋《わき》の坊に一泊し、翌日は蔵王堂からそれぞれと見物し、関屋の花を眺めて橘寺に出で、夜に入り松明《たいまつ》の出迎えを受けて安部寺に一宿し、長谷、三輪、石上を経て奈良に戻った。その後明応七年二月にもまた春日社参をやったが、この時は前駈《ぜんく》の馬がなかったので石原庄でもって借り入れたとある。永正二年には春日祭上卿をも勤めた。高野山の参詣に至っては、その記事が『群書類従』所載の「高野参詣日記」につまびらかであるからこれを省くが、その途中堺・住吉等を経由したことはもちろんである。奈良・高野の外に実隆の旅行区域といえば江州くらいのものであった。元三大師に参詣の序に石山寺まで趣いたこともある。鉤りの里に将軍義尚の御機嫌伺いに行ったことは前に述べた。このころは
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