《のぼ》り、文明九年二十三歳の時の暮にはようよう参議となり、公卿補任に載る身分となったので、実隆の公生活はまずこの辺からしてようやく多忙になった。
 公生活といえば大袈裟に聞えるが、実はさほど仕掛けの大きいものではない。政権が武家に移ったのは、昔の昔の話で、その武家すら政権というべきほどのものを持たなかった足利の中葉以後のことであるから、普通の意味で理解される政治とほとんど交渉を絶たれた当時の朝廷に、繁多の政務のあるべきはずがなく、したがって公卿の従事すべき公務とても、恒例臨時の節会《せちえ》を除けば、外は時々の除目《じもく》または御料所の年貢の催《うなが》し、神社仏閣の昇格の裁許くらいのものである。しかしてその公家の数も明応二年のころ総計六十七家のみであったと『蔭涼軒日録』の六月五日の条に見えているによって考えると、それら公家衆が総出で行なう儀式とても、その綺羅びやかさに至っては、五百以上の参衆を数うること稀ならぬ当時の禅徒らの執行するものに比べて、規模のすこぶる小なるものといわなければならなかった。しかもそれらの儀式すら応仁の一乱以後は廃絶したものが多く、文明七年に至って始めて諸公事が再興されたのであるから、それまでの大内山のわびしさは、けだし想像に余ることであったろう。この文明七年の四方拝には、実隆はまた右近衛権中将でこれに勤仕したのであるが、その際の日記に、「一天昇平よろしく今春に在るものか」と認《したた》めているのを見ても、公卿一般に蘇生の思いのあったことが、ありありとわかる。その翌文明八年の正月には、実隆の地位一段と進み、四方拝には蔵人頭としてこれに勤仕したが、乱後のこととて調度の類もととのわなかったと見え、式場に建て廻わすべき四帖の屏風のうち、二帖だけは大宋屏風で、式場相応のものであるけれど、残り二帖に事を欠き、しかるべき屏風の見当らぬところから、平素風前に立て置ける屏風を持ち出して間に合わせた。ところが暁天の寒む空に御拝を行なわれつつあった最中、風が吹き出して御屏風が倒れそうになったので、列座の公卿らが式の間これを抑えて倒れぬようにしたとある。絶えず歓楽と悲哀との間を出入しつつあった当時において、四方拝の如法にしかも寒夜に行なわれたということは、さすがに神ながらのすがすがしさを失われざる朝廷の趣がしのばれて、一段の異彩を放っている。同じ正月朔日の日記 
前へ 
次へ 
全72ページ中41ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 勝郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング