立てると苧商人らに申渡した記事があるからだ。しかしながらこの威嚇は効をなさなかったらしい。貢税額はハッキリわからぬ。明応七年五月の春成公用は二千疋とあるが、五年十二月の条には千二百疋とある。商人香取のことは前にちょっと述べたが、そのほかには日記には北林弥六という者苧商人雑掌と記されてある。こちらが苧商人の代表者であったかも知れぬ。この北林もまた時々実隆のために借金の周旋をしてやっている。
実隆は大略以上のごとき収入をもって暮らしを立てておったのであるが、しからばかかる楽屋を有する彼の公生活は如何であったろうか。次においてこれを述べることにしよう。
上文に述べたような楽屋を有する三条西実隆に、もし衣冠束帯をさしたならばどんな者になるであろうか。これがこれからして予の描こうとするところである。
そもそも実隆というのは、彼の最初からしての名ではない。第一につけられた名は、公世というのであって、その公世時代、すなわち長禄二年の末に、四歳にして従五位下に叙せられた。これがいわゆる叙爵なるものであって、その遅速がすなわち家柄の高下を示すところから、公家にとっては重大な事になっている。叙爵と同時に改名したので、その二日後に侍従に任官した時にはもはや公世ではなく、公延であった。五歳で備中権介を兼ぬることになったが、その翌年父公保が六十三歳で薨じた。この公保は内大臣まで歴進したけれど、槐位に列することわずかに一か月余で辞し、その後五年、すなわち実隆が生れた康正元年に出家した。その後なお五年間在世であったとはいえ、親のすでに出家した後、しかして家督たる実隆がまだ元服せぬ前であるから、このころは三条西家にとりてはなはだ引き立たぬ時代というべきであるが、それに加えて公保の薨去となって後は、いよいよ沈みがちの日を送ることとなったのである。
公延という二度目の名は文明元年すなわち彼の十五歳になるまで続いたが、元服と同時に官は右近衛権少将に進み、名は実隆と改まり、いくばくもなくして正五位下に叙せられ、翌年従四位下となった。このころからして禁裏にも出入し、一人前の公卿として働くこととなり、三条西家の人々もようやく愁眉を開くこととなったのに、好事には魔多くして、十八歳のとき母を喪《うしな》ったのである。これからしておよそ五か年の間に右近衛権中将、蔵人頭《くろうどのかみ》に進み、位は正四位に陞
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