ん》したように、三条西家は苧の売買からして課役をとる権利を有しておったので、必ずしもある一国に限った収入でなかったのかも知れぬ。しかして日記永正八年七月の条に天王寺商人からして、とても課役を納める力がないから、この上はじかに越後商人から徴収してもらいたいと申し出でているのによって考えると、その課役は便宜上買方なる阪本や天王寺の商人らからして納付の習慣となっていたのであろう。阪本からして取り立てた税については、阪本月輪院から送り来ったこともあり、また南林坊なるものが文明十六年堅田においてこれを沙汰したこともある。その時の年貢額は二百疋とあるが、これが平均額以上か以下かはわからぬ。明応五年正月からして阪本に苧課役を月俸にして沙汰をすることにしたと日記に見えているが、それ以前は年二回の徴収であったかも知れぬ。しかし苧の課役中で三条西家にとり最も収入の多かったのは、もちろん天王寺の座からして納入するものであった。天王寺の苧商人らは、越後からして荷物を取り寄せる時に船でもって若狭まで、次に若狭から近江を通さなければならなかった。ところが山門がその近江通過を要して課役でもかけたものと見え、苧商人から山門に対する苦情の出たことがある。また阪本の商人ら越後において青苧の盗買をし、課役を免《まぬか》れんとしたので、その荷物の差押えがあり、それには天王寺の商人の一人なる香取という者が関係しており、その香取が金策をして三条西家の屋根葺の費用を弁じたことが日記にある。かくのごとき越後産の苧が課役の基礎になっておったのであるからして、その越後の国が乱れると、天王寺商人らも身を全うして逃げ帰るが精一杯で、苧の買入れどころではなく、したがって苧の公事も納まらなくなる。時としては越後から積み出しが実際にあっても、抜荷の恐れのあることもあったが、幸いに着船地たる若州の守護は武田で、その被官人の粟屋という者は、実隆の妻の実家なる勧修寺尚顕の女を娶《めと》って、実隆とも別懇にしているので、苧船が着くと早速にこれを留め置いて三条西家に報告してくれた。苧船の隻数は時々不同であるが、日記に見えるところでは、十一隻というのが最も多い。苧の課役の納期は年二回で五月と十月とであったろうと思われるのは、五月に受領しているのが、日記にたびたび見えるし、また延徳三年十二月の条に、次の年から十月中に究済せぬ時には利息を取り
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