後はその邸もあるいは実隆の差配に属したのかも知れぬ。大永七年に花山家からして借入れを申込まれた時に、実隆は今仁和寺宮の衆が宿舎としているから、貸すわけに行きかぬると断わっている。
住宅は先ず右のとおりであったと仮定して、次にそれに住した家族について説こう。実隆の父は長禄四年に六十三歳をもって薨じたのであるが、そのとき実隆の年|甫《はじ》めて六歳。その後は専ら母親の手塩に育った。故に実隆は父を懐うよりも母を慕う情が深く、父の墓所二尊院に参詣するよりも、しの坂の母の墓に謁する方が、思い出の種も多かったのである。母というのは前にも述べたごとく、甘露寺親長の姉で、寡婦となってのち子の傅育《ふいく》に忙わしかったが、文明二年十月の末実隆が十六歳に達し、従四位下少将まで進んだ時、鞍馬寺において落髪した。当時鞍馬寺境内に公卿の居住すること稀ならず、長直朝臣などもおったらしい。三条西家もいかなる縁故あってかまだ穿鑿《せんさく》をしてはみぬけれども、以前からして鞍馬寺境内に家屋を所持し、もしくは寺の建物を借り入れて住居としておったらしく、実隆の母公の落髪も、やはりその宿所においてしたので、その時には母公の弟親長の妻が、はるばる鞍馬まで出向いた。翌文明三年尼公が執行作善の時には、実隆は叔父親長とともに出向き、親長は二泊して帰洛したとある。このころの実隆は主として母尼公とともに鞍馬の方に住居し、時々京都に下ったものらしく、文明三年の十二月下旬から出京し、己の第《やしき》と親長の第《やしき》とに、十余日|淹留《えんりゅう》、正月年頭の儀を了えて鞍馬に帰ったとある。しかるに母尼公は落髪後久しからずして、文明四年十月中旬に歿した。実隆の室勧修寺教秀の女が、三条西家へ輿入れして来た年月をば探し当てかねたが、長子公順の生れたのは、文明十六年すなわち実隆が三十歳の時で、その後三年にして次男公条が生れた。子としてはこのほかに女子一人あったが、これは二人の男子の姉であって、後に九条尚経に嫁し、植通の母となった従三位保子である。
しからばその召仕にはいかなる者どもがおったかというに、最古参者は父公保の時代永享十一年十八歳で三条西家へ奉公し、もって実隆の代に至るまで歴仕した右京大夫という侍女である。彼の武者小路の家で西の小屋に住しておった者すなわちそれで文明十五年ごろまでは、その母なる者も存生であったら
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