住宅はいかなるものであったろうかというに、前に述べたとおり、宅地そのものは南向きで、北は今出川の通りまでぬけておった。一般の公卿の邸宅の例に洩れずして、往来に面した方は土塀すなわち築地をもって囲われ、その築地の外側には堀を穿ってあったのであるが、これが土砂のために浅くなるので、時々|浚《さら》いをしたらしい。深くしておかなければならぬのは、盗賊の用心のためである。しかしながらこの外堀のみでは、安心ができぬによって、さらに釘貫をつけそのうえ土塀の内側にいま一条の堀を廻してあった。されば南門からして入っても、先ず一の橋を渡らなければならない。この内堀は東西南北の四面に在ったらしいが、東南の角だけは、後に埋め立てられて築山になった。これは多分物見に便するためであったろう。家屋は宅地の中心より少々西に偏しており、庭はその東方にあったらしい。母屋の西の方には、独立の小家屋があったが、これは三条西家で久しく召使った老官女の扣家《ひかえや》であって、明応九年の類焼の前年に取り毀ちになった。その理由は『実隆公記』に、「修繕手廻りかぬるため」とあって、その跡が用心のため、西内堀に直されたのである。旧宅は今出川の通りからして、武者小路の通りまで貫いておったのであるが、新宅の方は西の方が室町通りに面しているのみで、南は不遠院宮北は新大納言の典侍の間に挾まっておったらしい。新大典侍の方からして北方の地を割《さ》いてくれとの交渉が永正七年にあったのを見ると、どうしても地続きとしか思われぬ。西側が往来に面しているからして、新宅の此側の用心はなかなか厳重で、例の釘貫の設備もあった。築地も造り直した。西北隅には矢倉があった。門の前には土橋を構えたとあるが、これはもちろん塀の外の堀に架した橋だ。南、東の側には塀内に堀があったらしく、北側の用心に、釘貫のあったことだけは明かである。文亀二年になって売物に出た小座敷を買入れて、これを邸内に建て直したとあるのは、これは子なる公条がこの年十六歳でその春には右中将に転じたほどであるから、だんだん家が手狭になったによっての故であろう。この建直しの普請のために、以前の堀を埋めて別に掘り直したとある。永正六年には公条邸の南面に水門を掘らしめ築山をも造った。しかして矢倉の方はその一年ばかり以前に取り毀ってしまった。南隣に住まわれた不遠院宮は文亀四年に薨ぜられたが、その
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