しい。永正元年八十三歳まで勤続して落髪し、法名を光智禅尼といった。その後五年にして老病のため永正六年に歿したが、実隆はこの侍女の三十四歳の時に生れ、厚く介抱を受けているからして、その亡母の年回にも贈り物をし、その老官女が歿した時は、葬式その他万端特別の待遇であって、命日には法事をも営んでやったほどである。この老官女の下に梅枝という下女があった。これも久しく召仕われた婢で、永正二年その中風で歿した時の条に、「三十余年召仕う正直ものなり、不便にして力を失しおわんぬ」とあるから、おそらく文明の初年ごろからしてこの家に奉公した者であろう。されど老官女ですら、私穢を厭《いと》う当時の習慣のために、その病|革《あらた》まるに及び、来客の輿《こし》を借りて、急にこれを近所の小庵に移したくらいであるから、まして梅枝のごときは、死に瀕してから夜分今出川辺に出してしまった。大病人を逐い出すのは当時一般に行なわれたことで、三条家の知合なる某亜相のごときは、十一年間も妾同様にしておった女を、やはり大病になると近所の道場まで舁《か》き出させたことがある。されば実隆が二人の女中を死際に門外に出したとて、決して残酷な所為とはいい難い。この二人のほかに女中に関することは、総領娘保子の乳母にて雇った女が、男を拵えて逃亡を企てたところ、一旦は尋ね出された、しかし遂にはその男と奥州に下向したとの記事あるのみである。しかしながら女中はこの三人と限ったわけではなく、駈落した右の乳母の後任も入れたろうし、男の子のために別に雇われた乳母もあったかも知れぬ。また老官女や梅枝のかわりも出来たかも知れない。
三条西家の男子の召仕には、雑掌すなわち家令のような役をしておった元盛という者がある。これは通勤の役人であって、時としては主人の一家を私宅に招待し宴を催すこともあったが、文明十九年三月末に賜暇を得て越前の国へ下向し、間もなくその地において病歿した。この者は青侍《あおさぶらい》中特別の者であったからして年回には相当の合力をしてやったのである。この元盛が老年になってからわざわざ越前に赴き、そのまま歿したところを見ると、越前に在った三条西家の所領の出身なのであったろう。しかし元盛の妻は本来尾州の者であったらしい。尾州には三条西家の所領があったから、あるいはその出身かも知れぬ。これは夫の歿後には尾州に下向した。その際夫婦
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