かく述べ来ると、それのみでは、宗祇の仕打ちがいかにも押しつけがましく聞えるのであるが、その内情を調べると、必ずしも宗祇を酷評すべきではない。実隆は生計不如意のために、一方ならず宗祇に手数をかけている。実隆は延徳、明応の交、年貢未進で三条西家を困らした越前田野村からの取立てをそのころ北国通いをした宗祇を経て、朝倉家に依頼し、若干の収納を得たことがある。明応の末年には、宗祇の摂津行きの次をもって、魚市の件に関する伊丹兵庫助との交渉をやらしたこともある。そのほかに何方《いずかた》よりか千疋の借金を宗祇にしてもらったことが、三度ほど日記に見えており、千疋以下の借入れを頼んだこともある。周防《すほう》の大内家からして用脚《ようきゃく》を調達する時にも、また宗祇の斡旋《あっせん》を得ておった。当時の大内家は中国と九州とにまたがり拠有した大勢力で、それに支那貿易に関する特権を有したところから、その富西国に冠たる有様であったことは、みな人の知るところ、実隆の大内家との関係についてもまたすでに述べたとおりである。されば宗祇のみでなく、連歌師としては兼載のごとき、また延徳ごろに周防に往復している。連歌師のみならず龍翔院右府公敦のごときを始めとして公家等のたよって行ったのもある。『平家』を語る琵琶法師等もはるばる中国下りしてその眷顧を受けた。実隆が大内政弘のために、いろいろ書写してやり、あるいは銘を書き、周防浄光寺のために朝廷に取り持ちて、灌頂《かんじょう》開壇の特許を与え、宗祇の勧めによって長門住吉法楽万首の奥書を書し、殊に用脚に関する場合に、宗祇と相談のうえ書状を発している。されば実隆と大内家との間を親密ならしめたのは、宗祇の居中周旋によるものだとも考え得られるのである。実隆のために金策の秘計をめぐらした者は宗祇のみではないけれど、その方面においての宗祇の尽力は、決して少小でなかった。実隆に書いてもらった扇子をば、宗祇はあるいは実隆のための金策の便宜上、これを他に贈遺したかも知れぬ。少なくも実隆が宗祇に書いてやった扇子は、間接に自分の家計を補う因となったのだ。大晦日に扇子を書かされたとて、あまり苦情をいうべき筋でもない。これを日記に書したのは、一時むっとしたからで、実隆もまたこれらのために宗祇に対し永く不快の念を懐いたのではないようである。
 宗祇はもと身体壮健であったけれど、寄る年
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