波の争い難くて、明応五年のころから、耳聾し治し難く、その他にははるかに衰弱を見ざりしも、明応の末年より越後に遊び、立居のようやく意のごとくならぬを感じたれば、臨終のまさに近からんとするを覚り、少しにても都近き所に移らんとしたるをもって、宗長ら聞きてこれを伴い帰えりしに、文亀二年の七月二十九日というに遂に相模の箱根で入滅した。この報が京都に達し実隆の耳に入ったのは、それから約一か月半あまりの九月十六日で、宗祇の弟子玄清が来たり告げた。実隆大いに驚いて「驚嘆取喩に物なく、周章比類なきものなり」と記している。さて宗祇のすでに歿した後は、『古今』の伝授ひとり実隆によるのほかはないというので、玄清のごときは、この年の末に、実隆の教えを乞うた。実隆やむを得ずこれを承諾したが、いかにせん実隆所持したところの聞書をば、ことごとく焼失したために、大概のみのほか諮問《しもん》に答うることができなかった。宗祇の忌日は、歿後も斯道《しどう》において永く記憶され、時としては遠忌の実隆邸に催さるることもあった。また当時一般の習いとして、宗祇の影像が幾通りも画かれ、宗碩の宗祇像には、実隆の取次によって、宜竹和尚これが賛を書した。しかしながら多くの人は、宗祇の後継者たる実隆の賛を望むので、実隆はあるいは己れ賛を草してこれを書き、あるいは宗祇の句を賛語に擬して書いたこともある。『国華』第二百七十号に載するところの宗祇の肖像のごときはすなわちそれである。
 宗祇との親交は、ひいて宗祇門下と実隆との交際となった。肖柏のごとく少年より交久しく、宗祇の関係によって、いっそうその交情を深くした者はいうもさらであるが、それ以外に宗祇の弟子で最も多く実隆の邸に出入りしたのは、宗長、玄清、宗碩等である。これらはいずれも実隆の家事向きに関係を有したこと宗祇同様であった。宗長は三河・駿河方面に多く旅行し、今川氏親の眷顧を受けたので、永正五年には氏親から実隆への贈与金二千疋を取り次いだことがある。今川と実隆との間は、必ずしも宗長をのみ介したのではないけれど、この二千疋の時には、実隆もよほど嬉しかったと見え、「不慮の芳志なり、闕乏の時分、いささかよみがえるものなり」と日記にしるした。玄清は文亀二年実隆が座敷を増築しようとした時に、相談を受けてその金策をしたことがあり、前に述べたごとく『源氏物語』を甲斐国の某へ売却の周旋をし
前へ 次へ
全72ページ中67ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 勝郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング