へす所、即ちこれ歴史の興味が眞に存する所である。
 享樂主義が支配した點に於て、足利時代は猶ほ藤原時代の如くである。而して若し淫靡といふことが享樂の流弊であるならば、此點も亦兩時代に共通のものである。源語其他の古文學を讀みて猥褻だと感ずる者は、足利時代にもてはやされたお伽話を見て其甚しく露骨なるに驚かぬ筈はない。然れども同じくこれ享樂主義であるとは云ひながら、足利時代と藤原時代との間には、大なる差別がある。若し藤原時代の享樂を以て、苦勞を知らぬ千金の子の道樂に喩へることが出來るならば、足利時代の方は燒ヶ腹の道樂である。燒ヶ腹の道樂と評するのが、餘りに時代を自覺させ過ぎて居るといふ嫌ひがあるならば、更に之を盜賊や詐僞師が刹那の不義の快樂を貪りつゝ而かも戰々兢々として居るのに喩へてもよろしい。否此方が却りて適切かも知れぬ、櫻かざして日※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]の永きを喞てる者と、戰陣の門出でに隻脚の草鞋をしめ殘して連歌をやる者とは、決して同日に論すべきものではない。藤原時代を春とすれば、足利時代は小春である。小春の暖かさに催されて返へり咲きをする櫻があつても、小春はやはり小
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