のあつた輩も少くない。能狂言に於て古の風流兒在原業平が、歌舞音曲の化神として現はれたのを見る毎に、吾人は數百年を隔てたる此兩時代の間に、案外に深き關係のあることを考へるのを禁ずることが出來ぬ。されば本邦人文史上に於て、足利時代を以て藤原時代に對し、之をルネッサンスと見立てるのも、必しも全く謬見ではあるまい。
勿論足利時代は足利時代であつて、藤原時代をその儘に再現したものでないのは、丁度歐羅巴のルネッサンスが、決して古代希臘をその儘復活さしたのでないと同じことである。歴史は繰り返へすと云ふ格言は、一面の眞理を含んで居らぬではないけれど其繰り返へすと云ふ意味は、彼の走馬燈が一回轉を了へて、以前の位置に戻つたのと同樣なのではない。ロレンツォ・デ・メヂチが、カレッジの別墅に文士を集めて清談を試みたと云ふ夜遊は、プラトンがアカデミアの昔を忍んだのであるといふけれど、單に人相同じからざるのみにあらで、其の山河もちがふ。よしそれをば眼中に措かぬことが出來るとしても、如何とも致し方のないのは背景となる時代の相違である。此繰り返へすが如くにして必しも繰り返へさず、繰り返へさぬやうに見えて、而かも繰り返
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