起點を堺港に移してより以來は、彼の以太利諸市が十字軍時代に營んだ東方貿易と酷似する體裁を具ふることゝなつた。商人僧侶の外に、武人も行き美術家も出かけた。行く先きも必支那とは限らず、足利時代の末には更に進んで交趾、呂宋までも赴いた。往返の船舶が鎌倉時代に比して遙かに多かつたことは、自ら想像が出來る。されば若し我國史に於て地理發見時代を求むるならば、之を足利時代に擬する外はなからう。
更に類似の點は、商業市の勃興である。歐洲に於ける十二世紀以來の都市の興隆は、今爰に之を説くことを要せぬが、我國に於て幾分にても之に比すべきものありとすれば、それは足利時代である。足利時代以前に在りては、政治の中心たる京都や鎌倉にこそ、時代相應の都市生活を認むることが出來るけれど、通商貿易の結果として著るしき發達を遂げた都市といふものは、殆ど見當らない。其之れあるは足利時代に始まる。但し足利時代に於ける斯かる都市の數は、歐洲の中世に於ける以太利南佛等の地中海沿岸諸市、及び北歐のハンザ諸市等の如く多いのではなく、僅に堺、山口等若干あるのみであるが、其多少を論ぜず兎に角かゝる現象を見るのは、實に足利時代に始まるこ
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