貢院の春
原勝郎
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニス
[#…]:返り点
(例)多士赴[#レ]試之期、
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)つね/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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大正三年の春南海よりの歸へるさに支那内地を一瞥せばやと思ひ立ち、上海の淹留中には一夜泊りにて、杭州に遊び、噂にのみは年久しく耳馴れし西湖の風光をまのあたり眺め、更に上海よりして陸路金陵に赴き、長江を遡り、漢口を經て北京に入りたりしが、車上に將た船中に、日々眼に遮るもの一として驚神の因たらざるはなく、外國旅行には多少の經驗ある己にも、支那は再遊したき國なりとの感を禁ずること能はざりき。つね/\は支那の文學こそ誇張のみを事とするものと信じ居たりしに、現地に臨みては、其評判程ならぬを覺り、其誇張の適例とも見做すべき詩文の中にも、忠實なる寫生を企てたるものゝ少からぬことを始めて知りぬ。
予は今茲に予の經由せる地方、目撃せる事物の縷述を敢てせざるべし。彼の國人の著書既に充棟なるのみならず、予のとりし道は數多の邦人の往來せる所にして、之を説かむことは遼東の豕の譏りを免れざればなり。さりながら其中に就きて、今尚夢寐に忘れ難きもの二三あり。滬杭鐵道沿線の光景の如き其一なり。滿目の桃林と菜花とは云はずもがな、運河の支脈は村落の中を縱横に貫きて野人の家を繞ぐり、隣家を訪ひ隣村に赴かむとする者、必ず小船に棹して柳暗花明の間を過ぐ。人若し欲すれば、上海よりして杭州に至るまで、此船中の歡を繼續することを得べし。地勢平坦なれど斷絶多くして、縱まに車馬を驅るに適さざること彼の※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニスに似て、而かも地域の廣狹は固より同日に論ずべきにあらず。而して彼は海、此は河なれど、ゴンドラの風流の一端、亦之を此處に娯むを得べし。然れども若し更に此地方の適切なる匹儔を歐羅巴に求めば、獨都伯林を流るゝスプレーの、其上流の風光最も之と相若けり。予のスプレー・ワルドに遊びしは、同地方の最好季節と稱せらるゝ昇天祭に先つこと二ヶ月許り以前、木の芽も未だはり競はざる、春尚ほうら寒き頃なりき。されば予の見たる所を以て花の盛りのスプレーを推すこと難けれど、要するに彼は自然の閑寂を示すものにして、これは其豐富なる表現なり、蓋し地味肥瘠の差の致す所、若しそれ花下舟に棹す[#「棹す」は底本では「掉す」]の雅興に至りては、兩者殆ど相同じ。上に天堂あり下に蘇杭ありとの言必しも欺かず。予今に至りて其舟遊を試みざりしを悔ゆ。
忘れ難き第二は南京の貢院なり。抑も金陵には名蹟勝景甚多く、霞に包まれたる紫金山、莫愁湖の雨景、明の故宮は愚か滿人の屋敷跡にすら漸々と秀づる麥隴、いづれもとり/″\に面白かりしかど、深く感興を催せしこと貢院に如くものあらざりき。明代の貢院は太平賊の兵燹に滅びて、今存するは同治三年の修築に係かるものと云ふ。爾來半世紀にして科擧廢せられ、さしも大規模の房舍も無用の長物と化し了し、殊に革命亂以來は風雨に任かせて暴露せられたれば、彼の北京の貢院と同じく、全く其跡を留めざるに至るべきこと、恐くは十年を出でざるべしと思はれたり。五百の房屋、二百九十五號筒※[#「門<貝」、第4水準2−91−57]然として跫音を聞かず。大門は久しく鎖されたるまゝなれば、側なる築土の壞れより入りて見るに、折から浚渫中の秦淮の泥土は、院内に運び棄てられて堆高く、道路のみにて積み足らずして、千字文の字號を附して標識とせる號筒の小門を破壞し、號舍内に投げ入れられたるもあり。更に跼蹐して二三の號舍を仔細に窺へば、年々の受驗者等が嘗て燈もせる油煙の痕、尚ほ歴然として壁間の凹處に認められ、幾多受驗の士子等の心血を濺ぎし跡忍ばれて哀れなり。當年號軍等の叱咤叫喚の聲亦尚ほ耳に在る心地す。されば若し此荒廢のみならましかば、鬼氣人を襲ひて、長く遊子の低徊をゆるすべきにあらざれど、滿地に舗ける菜の花の我が國にて見馴れたる黄色のもののみならで、紫の色さえたるが多くさき雜じり、幾千萬の青年が畢生の榮として通過を希ひし其龍門の邊り、砌間となく階前となく、皆此黄紫の花もて被はれたれば、此處にも春は忘れで訪づれにけると覺えて、懷古の念は爲めに一しほの深さを加へながら、而かも人をして徒らに惆悵自失に終らしむることなく、虚心考察の餘裕を得せしめたりき。歴階して明遠樓上に登臨すれば、二萬六百四十四の號舍鱗の如く眼下に列なる。屹然として相對し東西に聳立するは、所謂瞭樓なるものにして、これよりして瞰下せば、各※[#二の字点、1−2−22]院の一半を監視し得べく、號舍に就ける士子等の妄動を禁じ得べきものなり。監視の設備の甚しく嚴重なるは、人をして近世式の監獄を聯想せしめ、狹矮なる號舍の櫛比は、曾て米國市俄古にて見物せし、ユニオン・ストック會社の家畜市場を思ひ起こさしむ。江南二省二萬餘の士子此一試場に會して才華を鬪はし、而かも登第僅に約百五十人のみと云ふに至りては、蓋しこれ文明の一大偉觀にして、歐米諸國と雖、之に比隆すべきものあらず。
菜の花を路のしるべとして西すれば即文廟なり。文廟と貢院との前なる秦淮に沿へる廣道は、我國の淺草奧山又は新京極に譬ふべき遊觀の區にして、長髮賊の亂後は、曩きは報恩寺邊に集中せる百戯雜伎皆此處に薈まり、終歳遊人※[#「虫+豈」、747−8]の如くなりと云ふ。革命の亂後其繁華大に衰へ、予の金陵を過ぎりし頃は、また往事の面影を止めざりしも、尚ほ雜閙他に優るものありき。程一※[#「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1−15−72]金陵賦に云へらく、「矧主司入[#レ]※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]之日、多士赴[#レ]試之期、走[#レ]馬看[#レ]榜之夜、鳴鹿吹[#レ]笙之時、士女如[#レ]雲、車馬四溢、譚者雖[#二]舌敝而賑焦[#一]、猶未[#レ]能[#レ]髣‐[#二]髴其萬一[#一]、」と。憾むらくは予の彼地に遊べるや、時に後くれて此盛況を見るに及ばざりしを。此よりして南利渉橋を渡れば、即これ有名なる秦淮の酒家なり。余懷が板橋雜記に、「逢[#「逢」は底本では「蓬」][#二]秋風桂子之年[#一]、四方應[#レ]試者畢集、結[#レ]駟連[#レ]騎選[#レ]色徴[#レ]歌、」と記るし、科に逢ふ歳の陰暦八月此歌舞の郷亦其餘惠を受け、「平康之盛事」を現じたりと云へり。而かもこれ「文戰之外篇」なれば、今詳に之を説くの要なし。窃かに惟ふに秦淮の盛は時ありて或は疇昔を凌駕すべきも、覺醒せる支那は永く科擧の制を復興することあらざるべし。人は曰く支那を衰へしめたるは科擧なりと。嗚呼科擧果してそれ罪すべきか。
論者動もすれば云へり、科擧は國の殃なりと。清朝の大厦將に傾かむとせるや先づ科擧の制を廢して國を濟はむとせり。而して科擧廢せられて幾ならず國亦滅びたり。若し科擧を以て支那の衰へたる主因となさば、蓋し寃枉[#「寃枉」は底本では「寃抂」]の最も甚しきものならむ。一千有餘年以前よりして科擧の制を行へる支那に、請託牽引の跡を絶たず、無能菲才の屡重用せられしを以て、直に科擧の效能の微小なるが爲めなりと論ずるは、これ試驗なる者の效果を過大視するより來る僻論なり。輓近文明諸國は率ね其文武官の任用に際し試驗を行へども、其登庸昇進必ず能否に比例し、全く怨嗟の聲を絶つに至れるもの、蓋し求め得難し。曷んぞ獨り科擧の制を行へる支那をのみ責むべけんや。科擧に採るべき點は、其原則に存し、官吏の任用に公平を以て第一義となし、最も自由競爭を尚べるに在り。歐米諸國に在りて所謂舊套時代に屬する十八世紀は論ずるを須ゐず、下りて十九世紀に入りても、其前半には試驗任用の制未だ行はれず。歐洲諸國中の先進にして、且つ最も民主的なりと稱せらるゝ英國に在りてすら、自由競爭を原則とせる文官試驗制度の一般に採用せらるゝに至りしは、一八七〇年以後のことにして、武官の任用に至りても久しく買官制を行ひ以て一八七一年に至りたりき。當時買官制廢止論に反對せる者の説に曰く、試驗任用法なるものは、之によりて以て多少の公平を期し得べきも、公平なる美名の下に不世出の偉材をして屡櫪間[#「櫪間」は底本では「※[#「てへん+歴」、749−8]間」]に老いしむる恐れあり、官職賣買の制固より其弊害なきにあらざるも、之により雋傑をして一躍適所に就くを得せしむるものなれば、遽に之を更めて試驗法を採るべきにあらずと。此論は十九世紀の始め議院改良論の英國に起り、先づ人口稀薄の獨立選擧區を罷めむとせし時、ヰリアム・ピットが曾て斯かる rotten borough より選出せられ、少壯にして首相となり得し例を論據として、以て改正の不必要を唱へたると同一軌のものにして、公平を犧牲に供して以て人材の拔擢に便ならしむべしとするものなり。若し夫れ老朽者をして安んじて職を退くを得せしめ、兼て有爲の新進の爲めに路を開くには、其官職の賣買を禁ぜざるを可とすと云ふに至りては、詭辨の甚しきものなり。超群の拔擢を必要とする人材の極めて稀にして甚逢ひ難きにも拘はらず、其僅に指を屈すべき少數者の爲めに、多數者の利益を無視し、其競進の道を杜絶するの不合理なるは論を竢たず。若し夫れ試驗法の採用によりて起こる人材壅塞の弊と俊材拔擢の名の下に行はるゝ嬖幸寵進の害とを比較せば、兩者の利害得失火を睹る[#「睹る」は底本では「賭る」]よりも瞭かなるあるべし。況や初任に際して試驗法によるは、必しも爾後に於て穎脱の逸材を拔擢するを妨げざるものなるをや。斯かる試驗法をも非とするは、これ即ち其試驗に合格し得ざる輩の中に強ひて多數の偉材の潜むを想定するものにして、頗る實際に遠き空論たるを免れず。宜なり歐洲諸國今多く試驗法を採用し、北米合衆國亦濫任の弊に懲りて一八八三年より文官任用試驗を行ふに至れること、蓋し皆進歩の大勢に驅られて爰に至りしものならずんばあらず。されば支那が千有餘年以前よりして科擧試驗を行ひ、歴朝次第に改良を加へて、遂に南京貢院の如き大營造物の必要を見るに至りたること、これ最も多とすべくして、決して嗤笑すべきにあらざるを知るべし。主義の透徹と否とは暫く措て之を論せず、公試によりて廣く人材を求めしことの、遠く歐米諸國に先てる、これ即ち支那の先進國たる所以にして、支那の文明が夙に其發達の頂點に達しながら、而かも久しく解體を免れ、積威を維持し得たりしは、主として此科擧ありしが爲め、階級制に伴ふ腐敗を殺ぎ得たりし故なり。支那に若し科擧あらざりせば、其文明の末路蓋し數世紀の以前にありしならむこと疑を容れず。
論者又或は曰く、科擧の原則そのものは嘉すべきも、其試驗の實際的方法宜しきを得ず、之を試るに經世有用の學術を以てせずして、詩文を主とし八股の舊套に捉はれて之に拘泥せる最も非難すべきなりと。此説一理あるに似たり。然りと雖、所謂惡税は徴收簡易にして、以て確實なる財源となし得べきに反し、所謂良税なるものゝ徴收煩雜、而して徴税の目的に適應せざるもの多きこと、これ司税者の常に嘆ずる所。されば若し税を徴することなくして已むを得ば、則ち論なきも、國家必ず課税の必要ある以上、税目の良否を論ずるは第二の事に屬せざるを得ずして、司税者の苦衷にも大に同情を寄すべきものあると一樣に、若し國家が門戸を開放し、人材の登庸に公平を持するが爲めに、何等かの試驗を行ふ必要あること爭ふべからずとせば、試驗科目の是非の如きはこれ枝葉の問題なり。科目の如何を論ぜず試驗を行ふは、全く之を行はざるに優ること明なればなり。此點よりして考察せば、試驗科目の適否の如きは、科擧の美制たるに累をなすものにあらざること昭々たるべし。
更に一歩を進めて科擧に於ける試驗科目の當否を論ずるも、亦一概に迂遠なりとして之を排斥すべきにあらざるを明
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