吾妻鏡の性質及其史料としての價値
原勝郎
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吾妻鏡が鎌倉時代史の貴重なる史料なることは苟も史學に志ある者の知悉する所たり、若し未同書に接せざる人あらば史學會雜誌第一號に掲げたる星野博士の同書解題をよみて後同書を一讀せられよ、其記事の比較的正確にして且社會諸般の事項に亘り、豐富なる材料を供給すること多く他に類をみざるところなり。然れども同書は其性質及其史料としての價値に至りては未充分の攻究を經ざるものあるに似たり、今少しく愚見を陳して以て大方の是正を仰がんと欲す、敢て斷案を下すと云ふにあらざるなり。
史料の批評に二樣の別あり、第一其外形よりするもの、第二其内容よりするもの是れなり、外形上の批評とは其紙質墨色書體よりするものにして、史家の史料に接するに當りて先甄別を要する所の條件なり、然れども此種の批評のみにては未盡くせりといふべからず、若し僞造に巧なる者ありて當時の紙と當時の墨とを用ゐ當時の書體に熟して文辭も亦相應なるものを作爲せば、熟練の鑑定者と雖、往々にして欺かるゝことあるべく、又文書類の者は兎も角、著述に至りては此種の鑑定は效力を顯はし得べき場合極めて稀少なるべし、且此種の批評充分にして鑑定正鵠を得、其史料にして僞造の者ならずと斷定せられたりとするも、未遽に其文書の内容を信用すべきにあらず、若し直にこれを輕信してこれを有效の史料となし其記載の事實によりて立論せば、其斷案の事實の眞相に背馳するに至る事なきを保せず、されば既に明に外形上によりして僞造と定まりたる史料は固より措て論ぜず、外形上の批評よりして疑似に屬するもの并に既に眞物と鑑定せられたる史料は爰に第二の試驗を經るの必要起るなり。
内容批評即第二の批評は、更に之を分ちて二となすことを得べし、曰く史料其者の批評、曰く外圍の關係より來る批評是なり、第一は他に關係なくして單に其史料につきて下す考察にして、其史家に與ふべき史的觀念の極めて漠然たるべきにも關せず、史料利用の根原となるべきものなり、若し此考察にして健全なるを得ば史家は既に其事業の半を成し得たるなり、この考察や、其考證以前にあるべきものにして一言以てこれを掩へば、史料の自證是れなり、これを爲して後史家は更に外圍の事情に照らして以て既に得たる觀念の範圍を定め、其色彩を明にし、更に精確なる者となさゞるべからず、他證是れなり、史料の自證や必其他證に先つべき者にして、若此順序を顛倒する時は、史料は其獨立の價値を失ひて既に他の史料によりて成れる觀念に更に零碎の知識を附與するに過ずして、史料中にて多數の壓制行はるることなり、史料其者が固有せる色彩は全く埋沒し、其現に放つべき光は他より借受けたるものとなりて、恰も月が太陽の光によりて始めて輝くが如くなるべし、一個の事實にして二樣以上の解釋をなし得べき者少しとなさず、若し單に外圍の事情を基として成せる觀念のみを重くこれによりて、此疑を判定し得ざるべしとせば、此觀念の錯誤ある場合に於ては遂にこれを矯正することを得ざるべし、史料中の多數の壓制とはこれなり、而して如何なる事實も其實際に於ては決して一個以上の正當なる解釋を許さゞる者なること明なれば、最深最後の疑團は史料の自證を措きて他に解釋の方法を索め得べからざるなり。
自證を經、他證を經るも、史家の職務は未終れるにあらず、史家は自證に始まり考證を經て精密となれる觀念を以て、更に史料に對し是を直接の史的知識となすを要す、史料の批評は爰に於て其終を告げたるなり。
史料の批評の困難なること實に斯の如し、而して史料中文書を以て比較的容易の者となす、何となれば多數の文書は其中に含有する事實の數極めて少くして錯綜の度深からず、一事實の觀察は其史料全體の觀察となること多ければなり、書籍に至りては批評の困難更に倍加す、而して其書籍の浩澣なるに從ひて益太甚し、其中には幾千百の事實を含有し、此事實や各其出處を異にし、然かも互に糾紛し解釋し、また解釋を亨くる[#「亨くる」はママ]者なればなり。故に書籍は其大體の史的價値を定め得たる後も、尚書中に存する各事實につきては特別の批評をなすを要するものなり、此事や明白の理の如く見ゆれども、多くの修史上の錯誤は信憑すべき者なりとの評ある書を過信して、書中の何れの事實も精確なりと速斷するより來ることを想へば、決して輕々に看過すべからざる要件なり、史料として或書籍の大體の價値を定むることは修史上極めて重要なることなれども、此批判定が書中の各事實に及ぼすべき影響は薄弱にして、且彌漫したるものなれば、書中の各事實の史的價値は大部分は其事實の特殊の考察に基かざるべからず、一般に僞書として排斥せらるゝ書籍も沙中の眞珠にも比すべき史的光彩の燦然たる事實を含有すること往々なり。
鎌倉時代の根本史料たる吾妻鏡の如きは管見を以てせば或は其性質は誤解せられ、其史料としての價値は過大視せらるゝ者にあらざるなきか、左に逐次[#「逐次」は底本では「遂次」]其理由を述ぶべし。
(一)[#「(一)」は縦中横]吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や
日記類の史料中重要の地位を占むる所以は、單に其當時史料たるにあり、詳言すれば事實が其出來せし日に記載せらるゝを以てなり、出處分明といふが如きは必しも日記類の特長にはあらず、此點に於ける價値は日記者の觀察力の明否と、其公平と否と、及び其記述せる事實に對して日記者の位置如何、即出來せる事實と其記述との間に横はるべき外圍的媒介の性質によるものにして、事實が未確然たる認定を經ざる間に發生する日々の風説が、往々日記に上り得ることを思へば、此點に於ては、日記は却りて危險なる史料たることもなきにあらず、されば日記の史的價値は主として記憶なる者は時を經過すること長きに從ひて次第に精確なる再現を得べき能力を失ふべしとの原理に基づくものにして、苟も日記にして其日記たるの性質を失ひて追記の性質を帶ぶるに至らば、其史料としての價値が減殺せらるゝ所あるべきは至當の事なり、彼武家時代に於ける公卿縉紳の徒に王朝の盛時を顧み醉生夢死し、當時の天下の大勢に至りては※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]然として知るなきの輩多きも、而かも其日記が相應に史的價値を有するに至れる其所以亦偏に爰にありて存するなり。
吾妻鏡は果して純粹の日記なるや否や星野博士の吾妻鏡考にも
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文體ヲ審ニスルニ前後詳略アリ前半ハ追記ニシテ後半ハ逐次續録セシニ似タリ
[#ここで字下げ終わり]
とありて徹頭徹尾純粹の日記にあらざることは博士既にこれを云はれたり。されど博士の所謂前半後半の經界は博士の吾妻鏡考中に見えざれば今高見を知悉するに由なし文治以前は措て論せず今其以後につきて追記と思惟せらるゝ二三の事實を列擧して以て蛇足を添へむと欲す。
建暦三年四月十六日の條に
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朝盛出家事郎從等走歸本所、告父祖等、此時乍驚、自閨中述出一通書状、披覽之處、處書載云叛逆之企、於今者定難被默止歟、雖然、順一族、不可奉射主君、又候御方、不可敵于父祖、不如入無爲、免自他苦患云々、義盛聞此事、太忿怒、已雖法體、可追返之由、示付四郎左衞門尉義直、(下略)
[#ここで字下げ終わり]
朝盛の出家に至りては既に公然の事實なれば何人の之を知るとも怪むに足らざれども其遺書の閨中に存せしこと并に其書中記載の事項に至りては遽に和田一門以外の人に洩るべきにはあらず、殊に書載云以下の事項に關しては和田氏未公然擧兵の事あらざる以前にありては、和田氏たる者力を竭して其秘密を保つべきことなるは理の當然なれば、此遺書の發見せられし當日に日記者の耳に達したりとせむ事頗危險なる斷案なり、故に吾妻鏡が此條の記事を以て信憑するに足るものとせば、追記したりとする方安全の推測なるべく、然らざれば、此事項は記者の臆斷にとゞまるに過ぎざるものとなるべし。
同年五月三日の條に
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御方兵由利中八郎維久、於若宮大路射三浦之輩、其箭註姓名、古郡左衞門尉保忠郎從兩三輩中此箭、保忠大瞋兮、取件箭返之處、立匠作之鎧草摺之間、維久令與義盛、奉射御方大將軍之由、披露云々
[#ここで字下げ終わり]
同五月五日の條に
[#ここから3字下げ]
去三日由利中八郎維久、奉射匠作事、造意之企也、已同義盛、可彼糺明之由、有其沙汰、被召件箭於御所之處、矢注分明也、更難遁其咎之旨、有御氣色、而維久陳申云、候御方防凶徒事、武州令見知給、被尋決之後、可有罪科左右歟云々、仍召武州、武州被申云、維久於若宮大路、對保忠發箭及度々、斯時凶徒等頗引返、推量之所覃、阿黨射返彼箭歟云々、然而猶以不宥之云々
[#ここで字下げ終わり]
五月三日の條と同五日の條とは若吾妻鏡が一人の手に成りたる日記なりとせば、明に其間に矛盾の存することを見るべく、此矛盾を解釋せんには三日の條の記事を以て追記なりとせざるを得ず、然らざれば三日に於て既に明白なる事實が、五日に於て疑義となること怪むべきことなり、且三日の記事は既に其中に於て矛盾を含めり、慥に御方に候せる維久が、故に矢を義盛に送りて泰時を射さしめたりといふが如きは、事實上あり得べからざることにして、此矛盾は益三日の記事の麁忽に追記せられたることを證する者なり。
承久兵亂の記事に至りては半ば全く追記なり、若追記なりとせざれば、此日記者は數多の分身を有する人ならざるべからず、承久三年五月廿四日までは記者は鎌倉を中心として記述をなすと雖、廿五日の條に至りては初に
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自廿二日至今曉、於可然東士者、悉以上洛、於京兆所記置其交名也
[#ここで字下げ終わり]
と鎌倉の事を記し、而して同日の條に
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今日及黄昏、武州至駿河國、爰安東兵衞尉忠家云々
[#ここで字下げ終わり]
と駿河國に起れる事件を記す、日記者はこれよりして二個の分身を有す。
廿六日の條に初は
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始行世上無爲祈祷於鶴岡云々
[#ここで字下げ終わり]
と鎌倉に起れる事件を記して而して、同日の條
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武州者着于手越驛云々
[#ここで字下げ終わり]
また
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今日晩景秀澄自美濃國[#ここから割り注]去十九日遣官軍所被固關方之也[#ここで割り注終わり]重飛脚於京都申云、關東士云々
[#ここで字下げ終わり]
とあり記者の分身の數は爰に於て更に一個を増せり。
同廿九日の條に
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佐々木兵衞太郎信實[#ここから割り注]兵衞盛綱法師等[#ここで割り注終わり]相從北陸道大將軍[#ここから割り注]朝時[#ここで割り注終わり]令上洛、爰阿波宰相中將[#ここから割り注]信成卿亂逆之張本[#ここで割り注終わり]家人河勾八郎家賢[#ここから割り注]腰賢瀧口季後胤[#ここで割り注終わり]引率伴類六十餘人、籠于越後國加地庄願文山之間、信實追討之訖、關東士敗官軍之最初也
[#ここで字下げ終わり]
また同日の條に
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相州武州等率大軍上洛事、今日達叡聞云々、院中上下消魂云々
[#ここで字下げ終わり]
爰に至りて分身の數更に二個を増して一は北陸にあり一は京師にあり。
同晦日の條に
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相州著遠江國橋本驛云々
[#ここで字下げ終わり]
とこれによりて見れば記者にはなほ相州の身に添へる一分身ありけるなり、此の如く承久兵亂に關しては吾妻鏡は鎌倉に起りしことも北陸に起りしことも乃至は關西に起りしことをも皆各其起りし日にかけて之を載することなるが、此の如き早業は電信なるものゝ存せざりし當時にありては、日記者にして數多の分身を有するにあらざるより、決して成し得べからざることなり、
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