而して分身の事も亦あり得べき事ならざれば、承久兵亂に關する吾妻鏡の記事は後日の追記なること疑もなきことなるべし。
 脱漏之卷嘉禄二年十一月八日の條に
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陸奧國平泉圓隆寺燒亡、于時有此災之由、告廻鎌倉中者有之可謂不思議云々然後日所令風聞彼時刻也
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これ明に此記事の追記たることを自白するものなり
 以上述ぶる所によりて推論せば、吾妻鏡は少くも嘉禄二年までは追記の事實を混じたる者なること明なるべし、今假りに嘉禄二年を以て追記と否との經界と定むるときは、此年は吾妻鏡が筆を起せる治承四年より算すれば四十七年目にして、此書を載する所の記事が八十七年に亘るよりして考ふれば、年數に於ては先中頃とも云ふべければ、星野博士が前半は追記なりと云はれたるは、至當の言なるべし。此前半が一人の手にて一擧に追記せられたるや、或は既に存せし日記に補繕をなしたる者なるや、博士もこれを明言せられず、余は寧後説を信ぜんと欲するものなれども、此點は今暫くこれを措き、兎に角吾妻鏡の前半は純粹の日記にあらざることを思はゞ、其價値の大體に於て減殺を來すべきことは、免るべからざる運命ならむ。
    (二)[#「(二)」は縦中横]吾妻鏡は其性質上果して官府の書類なるべきか
 吾妻鏡が既に追記と日記とを混じて成れる者と定まれりとすると、若し其追記の部が官府の吏人の公職を帶びてなせる者ならば、吾妻鏡は公書類として特別の價値を失ふことなかるべし、余は竊かに其公書類たるを怪しむ者なり、星野博士は其
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治承四年ヨリ文永三年ニ至ルマテ凡八十七年間鎌倉幕府ノ日記ナリ編者ノ姓名傳ハラサルモ其幕府ノ吏人ナルハ疑ナシ
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と云はれたれども余は寧ろ林道春の東鑑考に
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東鏡未詳撰、盖北條家之左右執文筆者記之歟、此中北條殿請文下知書状等皆平性而不書諱、又其廣元邦通俊兼之筆記亦當混雜而在歟
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と云へるに同ぜんと欲す。承久以降鎌倉幕府の實權全然北條氏の手に歸してよりは、北條氏の左右とても實際は幕府の吏人と異る所なければ、吾妻鏡後半の無味乾燥の事實多き日記の部に至りては、孰れにても不可なきことなれども、其上半即比較的價値の大なる部分を考察する時は、官府の書類としては少しく詳細に過ぎ冗長の嫌あるのみならず、其北條氏を回護することの至れる、鎌倉幕府の吏人の編著としては奇怪に思はるゝ條少からず、星野博士は吾妻鏡を評して
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叙事確實質ニシテ野ナラズ簡ニシテ能ク盡クス頼朝ノ天下經營ノ方略北條ノ政柄攘竊ノ心曲等描寫ニシテ其顛末を具備セリタヾ頼家變死ノ一事ハ曲筆ヲ免レズト雖、其餘ハ皆直書シテ諱マズ
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といはれ
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頼朝ノ傍※[#「女+搖のつくり」、第4水準2−5−69]政子ノ妬悍ノ類隱避スル所ナキヲ以テモ之ヲ知ルベシ
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とて其直筆の一例となされたれども、王朝淫靡の餘風を享けたる當時にありては男女の關係の亂れたりしは事實にして、當時の人も強てかゝることを秘密にせむとの念慮熾ならず。これに關しては其倫理の標準は他の人倫關係に於けるよりも數等低かりければ、從ひて曲筆を爲すの必要を感ずること薄し、故に單にこれのみを以ては、吾妻鏡は一般に直筆なりとして之を信用すること難きものあるに似たり、今頼家變死の事件以外に曲筆と思はるゝ二三を例擧すべし
 建仁三年九月五日の條に
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將軍家御病痾少減、※[#「(來+力)/心」、381−7]以保壽算而令聞若君並能員滅亡事給、不堪其鬱陶、可誅遠州由、密々被仰和田左衞門尉義盛及仁田四郎忠常等、云々
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とあり義盛は能員の邸を攻めし人なり、頼家如何に暗愚なりとするも、既に事變を聞きたりとせば、義盛の擧動を知るべき筈なり。假りにこれを知らざりしとするも、斯る重要なる密事を託するに先ちては、必之を託するに足るべき人を撰擇するは普通にして且至當の事なれば、頼家が密書を義盛に與ふるに際しては比企邸の事變に關して義盛が執りし態度を知れりと考ふること穩當なるべし、既に之を知れりとせば、北條方なる義盛に頼家が密書を與へたることは實らしからざることなり、よし吾妻鏡の編者に數歩を讓りて義盛の比企邸を攻めしは深く北條氏に結托せる結果にはあらずして、比企氏に對する感情より來りたりと假定し、頼家が義盛に反正の望を屬し、其右族の領袖たるの故を以て、此密事を得べき唯一の家人と信じ以て密書を與ふるに至れりとするも、同樣の密書を仁田忠常にも與へたりとの事實は信用しがたき事なり、忠常は能員を殺したる當の下手人なり、而して其驍勇は有名なるも、別に鎌倉に勢力ある人にもあらず、頼家と雖、豈かゝる輩に密事を委託するの愚を學ふべき筈あらんや、愚考を以てすれば、此日の記事は、少くも其忠常に關せる部分は、翌日時政が忠常を殺す條の伏線として、之が辯明に供したる風説を登録したるに過ぎず。
 元久二年六月廿一日の條に
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牧御方請朝雅[#ここから割り注]去年爲畠山六郎被惡口[#ここで割り注終わり]讒訴、被鬱胸之、可誅重忠父子之由、内々有計議、先遠州被仰此事於相州並式部烝時房主等、兩客被申云、重忠治承四年以來、專忠直間、右大將軍依鑒其志給、可奉護後胤之旨、被遺慇懃御詞者也、就中雖候于金吾將軍御方、能員合戰之時、參御方抽其忠、是併重御父子禮之故也[#ここから割り注]重忠者遠州聟也[#ここで割り注終わり]而今以何憤可令叛逆哉、若被弃度々勳功、被加楚忽誅戮者、定可及後悔、糺犯否之眞僞之後、有其沙汰、不可停滯歟云々
[#ここで字下げ終わり]
 同廿三日の條にも
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相州被申云、重忠弟親類大略以在他所、相從于戰場之者、僅百餘輩也、然者企謀反事、已爲虚誕、若依讒訴逢誅戮歟、太以不便、斬首持來于陣頭、見之不忘年來合眼之眤、悲涙難禁云々
[#ここで字下げ終わり]
とあり若此等の記述にして事實ならば、義時が重忠を以て忠孝節烈の士となしこれを敬愛しこれを辯護すること至れりといふべし。而して諫めて聽かず號泣して父に從ふが如きに至りては、義時は殆儔稀なる義人孝子といふも可なるべし、此事件に付きての政子の態度をば、吾妻鏡之を明記せざれども、其後幾くもなくして起れる朝政謀反事件よりして考ふるも、政子は重忠誅戮に關しては義時も同一の意見なりと想像して大差なかるべし、然るに同年七月八日の條に
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以畠山次郎重忠餘黨等所領、賜勳功之輩、尼御臺所御計也、將軍家御幼稚之間如此云々
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 同月廿日の條に
[#ここから3字下げ]
尼御臺所御方女房五六輩、浴新恩、是又亡卒遺也云々
[#ここで字下げ終わり]
とあり、寃罪にて誅せられ廣常の後の如きは勿論、眞に其罪ありて誅せられし者の後と雖、なほ幕府より撫恤を蒙れる例もあり、傳ふる如くんば重忠秋毫の罪あるにあらず、これ鎌倉の衆目のみる所、義時政子の熟知する所なり、假令重忠の誅戮をば宥むること能はざりしにもせよ、延て其餘黨を窮追しこれが所領を奪ひ政子の計らひとして之を勳功の輩に與ふることあるべからざるなり、義時も又爰にいたりて一言の云々もなし、義時政子の二人何ぞ始めて孝且義にして後に漠然たるの甚しきや、或は當時二人の擧動を以て父時政に對して忍びざるの情より來りたりとするも、若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば、始めに處女にして終りに脱兎たる者か、怪むべきの至なり。換言すればかゝる矛盾を來す所以は吾妻鏡の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりしてかゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべし。
 其他吾妻鏡に謀叛と記せる者の中には北條氏に對して何等の反抗の準備もなかりしもの少からざるは、また怪むべきの一なり、今其例を擧ぐれば、元久二年八月の宇都宮彌三郎頼綱の謀叛の如きこれなり、然るに頼綱の降ること速なりしよりして考ふるも頼綱は決して當時の幕府に對して謀反を準備したる者とは見えざるなり、自餘の所謂謀叛の徒の中にも、單に攻撃的動作を爲さざりしのみならずして、甚しきは應戰防守の準備さへもなく一たび討平を向けらるれば或は直に遁逃し或は謝罪し或は自殺せる者多し。知るべし、是等は多くは眞の謀叛者にあらず些少の事項は北條氏の口實とする所となりて顛滅の難に遭ひし者なることを。殊に寛元五年六月三浦氏滅亡の條を熟讀し余は益余の推測の至當なることを、信ぜんと欲するなり、安達氏北條氏と結びて頻りに名門右族を芟除す、而してこれ亦北條氏の好む所に投じたる者なり、三浦氏も亦此隱謀の犧牲となりしものにして其擧兵の跡甚憐むべきものあり、吾妻鏡の編者此等の徒を汎稱して謀反といふ、盖北條氏に※[#「言+叟」、385−12]るものなり。
 建保四年九月廿日の條實朝大江廣元の諫言に答へて
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源氏正統縮此時畢、子孫不可相繼之、然者飽帶官職欲擧家名云々
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と云へりと、吾妻鏡に記せりと雖、當時の鎌倉は次第に關東素撲の風を脱して競ひて京都の虚禮多き開化を輸入せることなれば、實朝の高官に昇り且昇るを望みしことも、さして怪むべき事にはあらざれば、其昇進の事必しも實朝の讖言を借らざれば説明し得べからざるにはあらず。余は寧ろ實朝の此言を發せしといふことの事實たるを疑はむと欲するなり、恐くは北條氏の爲めに鶴岡の變に關する嫌疑を回護せむとして此言をなせるにあらざるなきか。
 建保七年二月八日の條に
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去月廿七日戍尅供養之時、如夢兮白犬見御傍之後、心神違亂之間、讓御劒於仲業朝臣、相具伊賀四郎計、退出畢、而右京兆者被役御劒之由、禪師兼以存知之間、守其役人、斬仲章之首、當彼時此堂戍神不坐于堂中給云々
[#ここで字下げ終わり]
疑ひ來れはこれ亦義時人を欺くの擧動とも解釋し得べし、承久二年正月十四日の條に
[#ここから3字下げ]
亥刻相州息次郎時村三郎資時等、俄以出家、時村行念資時眞照云々、楚忽之儀人怪之
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と説けるは、或は偶然に鶴岡事變に關する義時の態度の隱微の消息を傳ふる者にあらざるか。
 寛元二年頼嗣の繼立に付きては、吾妻鏡は何等の委曲をも傳へず、建長三年頼嗣廢せらるの件に關しても、建長三年十二月廿二日の條に
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鎌倉中無故在物念謀反之輩之由、巷説相交、幕府並相州御第警巡頗嚴密云々
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同月廿六日の條に
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今日未尅之及一點而、世上物※[#「蚣のつくり/心」、第3水準1−84−41]也、近江大夫判官氏信、武藏左衞門尉景頼、生虜了行法師矢作左衞門尉[#ここから割り注]千葉介近親[#ここで割り注終わり]長次郎左衛門尉久連等、件之輩有謀反之企云々、仍諏方兵衛入道爲蓮佛之承推問子細、大田七郎康有而記詞、逆心悉顯露云々、其後鎌倉中彌騷動、諸人競集云々
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同月廿七日條に
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被誅謀反之衆又有配流之者云々、近國御家人群參如雲霞皆以可歸國之由被仰出也
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と記載するのみにて將軍廢立の理由に至りては極めて漠然たり、吾妻鏡の最後の記事なる將軍宗尊親王を廢して京都に返すの條もまた要領を得ず、盖此書の編者回護の途なきよりして事實を湮滅したるものなり
 吾妻鏡の北條氏の爲に辯護し屡曲筆に陷ること如此なるよりして見れば、余は之を以て幕府の公書類となすよりは道春の考證に從ひて北條氏の左右の手に成れる者となすの穩當なるを信ずるなり。
 吾妻鏡は惟り曲筆の少からざるのみならず更に他の理由よりして官府の日記にあらざることを證し得べし、理由の第一は、其體裁格例の一定せざる事これなり、官府の日記とは官府に奉仕するもの其職務上記注する所の日記に外ならずして、其記注の方法に至りては自一定の格例あるを常とす、繁簡は素より事實に從ひて異るべきものなれば、之を一樣ならしむること能はざれど
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