も、若既に一事件を記載したりとせば同種類の事件再出來する時は、特別なる事情あるにあらざるよりは、必ずこれを記すべきは至當の事にして、其繁簡の度も一樣なるべき筈なり、吾妻鏡中文治以前の小説的記事多き部分は今之を措き、其他の部分に就きて之を見るも體裁の不揃なること驚くに堪へたり、年處を經るに從ひて浩瀚の書の殘闕を生ずるは自然の事なれば、吾妻鏡の同一運命に遭遇せること素より怪むに足らざれども、一ヶ月以上の連續せる脱漏あるにあらずして、然かも一ヶ年中僅かに四五日の記事あるもの多きに至りては、余はこれを以て單に散佚の結果ありと信ずること能はざるなり、此の如きは正治建仁の際に於て殊に甚しきを見るなり、今左に正治三年より建仁三年まで吾妻鏡に見ゆる日數を示すべし
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正治三年(建仁元年)
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正月、三日、 二月、四日、 三月、五日、 四月、三日、
五月、四日、 六月、四日、 七月、二日、 八月、三日、
九月、九日、 十月、七日、十一月、二日、十二月、五日、
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合計 五十一日
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建仁二年
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正月 四日、 二月 四日、 三月 六日、 四月 三日、
五月 八日、 六月 七日、 七月 六日、 八月 六日、
九月 五日、 十月 十日、十一月 八日、十二月 八日、
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合計 八十五日[#「八十五日」はママ]
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三ヶ年一千有餘日の中に就きて日記に上ぼれるもの僅々百九十日に過きず、如何に平穩無事なりとても、餘りに簡略に過ぐるなり、蹴鞠和歌の諸會のみならず天體の日常の變化其他鎌倉市中の些事に至るまで輯録するを厭はざる吾妻鏡としては、余は是等過度の簡略に關して日記として正當なる辯解を有せざるなり、殊に建仁元年四五月の交は越後に城資盛の叛ありて鎌倉よりは討手として佐々木盛綱を遣はせるなど、中々の騷動なりしに、當時の記事の寂莫此の如し、これ豈格例ある官府の日記の資格を具備するとのならむや
又建長二年十二月廿九日の條に
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所謂新造閑院殿遷幸之時、瀧口衆事自關東可被催進之旨、所被仰下也、仍日來有沙汰、任寛喜二年閏正月之例、各可進子息由、召仰可然之氏族等、但彼時人數記不分明之間、被尋出所給御教書、就其跡等、今日被仰付之處云々
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是によりて見れば瀧口に關する寛喜二年の古例の記録は官府に存せざりしや明なり、然るに吾妻鏡寛喜二年閏正月廿六日の條に
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瀧口無人之間、仰經歴輩之子孫、可差進之旨、被下院宣已訖・仍日來有其沙汰、小山下河邊千葉秩父三浦鎌倉宇都宮氏家伊東波多野、此家々可進子息一人之旨、今日被仰下其状云云
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若寛喜の此記事にして官府の日記なりとせば、建長二年に於て各家に賜へる御教書に就きて古例を尋ぬるの要なかるべし、而して建長二年の條には人數不分明とあれば、寛喜の記事は官府の日記にあらざること照々たり。
(三)[#「(三)」は縦中横]吾妻鏡の性質及其史料としての價値に關する私案
吾妻鏡は純粹の日記にもあらず亦幕府の記録にもあらざること前文述ぶるが如くなりとする時は、吾妻鏡は然らば如何なる性質のものなるやとの疑問は必生ずべし、私案を以てすれば吾妻鏡は三部よりなる者の如し、
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第一部 治承四年より承元前後まで
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此部は諸家の記録及故老の物語を參照して日記體に編述せし者なるべく吾妻鏡中趣味尤津々たれども從ひて潤飾の跡多く北條氏の爲に曲筆をなせし個所少からず
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第二部 建暦前後より延應の前後まで
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此部は追記の個處も曲筆も第一部よりは少し、大事變の場合を除けば他は主として諸家の日記によれる者の如し、全體に於ては一人の編輯の如くなるも、口碑を採用せし點は至つて少く、第一部に比して多く信憑するに足る文暦二年及寛元二年の重出するは第二部の終りと第三部の初と其年代に於て重複する所あるの證左なるべく、第二部も終りに近くに從ひて純粹の日記となる、恐くば第三部の初は第二部の終りの直接史料にあらざるか
第二部の第一部と其編者を異にするは、大事變大儀式等を記述するに當りて、第二部に特有なる熟語[#ここから割り注]例へば濟々焉の如し[#ここで割り注終わり]の用ひらるゝによりて之を推すべし
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第三部 延應前後より終りまで
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此部は北條氏の左右の記せる純粹の日記なり
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此の如く吾妻鏡は複雜なる構成を有するものなり、若し一貫したる性質のものとする時は寶治二年二月五日の條の
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云義顯云泰衡、非指朝敵、只以宿意誅亡之故也云々
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といへる記述は、文治五六年の記事と撞着して説明しがたきに至るべし。
史料として吾妻鏡の價値は主として守護地頭其他の法制に關係ある事實にあり、これ吾妻鏡の史料は多く政所問注所に關係ある諸家の日記其他の記録なるべきの故のみにあらず、法制關係の事項は曲筆せるゝ危險の度比較的寡少なるを以てなり、其他の事項に關しても吾妻鏡は豐富なる史料を供給する者あれば、鎌倉時代の根本史料たることを失はざれども、法制關係を取除きての政治史の材料としては一種の傾向を有するよりして、從ひて往々曲筆を免れざるが故に、信憑すべき直接史料となし難きものなり。
以上の私案は、吾妻鏡其者のみに就きて爲したる考察にして、此考察と雖、未充分なる商覈を經たりといふにあらざれば、此私案も不完全を免れざるは明なり、謹みて江湖博學の是正を俟つ、若夫れ吾妻鏡所載の各事實の考證に至りては本論の主とする所にあらざるなり。
底本:「日本中世史の研究」同文館
1929(昭和4)年11月20日発行
初出:「史学雑誌 第9編第5、6号」
1898(明治31)年5、6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※建仁二年の日数の合計は、底本には八十五日とあるが、七十五日になる。建仁三年の日数は底本になし。
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2010年1月21日作成
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