の輩に與ふることあるべからざるなり、義時も又爰にいたりて一言の云々もなし、義時政子の二人何ぞ始めて孝且義にして後に漠然たるの甚しきや、或は當時二人の擧動を以て父時政に對して忍びざるの情より來りたりとするも、若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば、始めに處女にして終りに脱兎たる者か、怪むべきの至なり。換言すればかゝる矛盾を來す所以は吾妻鏡の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりしてかゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべし。
 其他吾妻鏡に謀叛と記せる者の中には北條氏に對して何等の反抗の準備もなかりしもの少からざるは、また怪むべきの一なり、今其例を擧ぐれば、元久二年八月の宇都宮彌三郎頼綱の謀叛の如きこれなり、然るに頼綱の降ること速なりしよりして考ふるも頼綱は決して當時の幕府に對して謀反を準備したる者とは見えざるなり、自餘の所謂謀叛の徒の中にも、單に攻撃的動作を爲さざりしのみならずして、甚しきは應戰防守の準備さへもなく一たび討平を向けらるれば或は直に遁逃し或は謝罪し或は自殺せる者多し。知るべし、是等は多くは眞の謀叛者にあらず些少の事項は北條氏の口實とする所となりて顛滅の難に遭ひし者なることを。殊に寛元五年六月三浦氏滅亡の條を熟讀し余は益余の推測の至當なることを、信ぜんと欲するなり、安達氏北條氏と結びて頻りに名門右族を芟除す、而してこれ亦北條氏の好む所に投じたる者なり、三浦氏も亦此隱謀の犧牲となりしものにして其擧兵の跡甚憐むべきものあり、吾妻鏡の編者此等の徒を汎稱して謀反といふ、盖北條氏に※[#「言+叟」、385−12]るものなり。
 建保四年九月廿日の條實朝大江廣元の諫言に答へて
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源氏正統縮此時畢、子孫不可相繼之、然者飽帶官職欲擧家名云々
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と云へりと、吾妻鏡に記せりと雖、當時の鎌倉は次第に關東素撲の風を脱して競ひて京都の虚禮多き開化を輸入せることなれば、實朝の高官に昇り且昇るを望みしことも、さして怪むべき事にはあらざれば、其昇進の事必しも實朝の讖言を借らざれば説明し得べからざるにはあらず。余は寧ろ實朝の此言を發せしといふことの事實たるを疑はむと欲するなり、恐くは北條氏の爲めに鶴岡の變に關する嫌疑を回護せむとして此言をなせるにあらざるなきか。
 建保七年二月八日の條に
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去月廿七日戍尅供養之時
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