、如夢兮白犬見御傍之後、心神違亂之間、讓御劒於仲業朝臣、相具伊賀四郎計、退出畢、而右京兆者被役御劒之由、禪師兼以存知之間、守其役人、斬仲章之首、當彼時此堂戍神不坐于堂中給云々
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疑ひ來れはこれ亦義時人を欺くの擧動とも解釋し得べし、承久二年正月十四日の條に
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亥刻相州息次郎時村三郎資時等、俄以出家、時村行念資時眞照云々、楚忽之儀人怪之
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と説けるは、或は偶然に鶴岡事變に關する義時の態度の隱微の消息を傳ふる者にあらざるか。
 寛元二年頼嗣の繼立に付きては、吾妻鏡は何等の委曲をも傳へず、建長三年頼嗣廢せらるの件に關しても、建長三年十二月廿二日の條に
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鎌倉中無故在物念謀反之輩之由、巷説相交、幕府並相州御第警巡頗嚴密云々
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同月廿六日の條に
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今日未尅之及一點而、世上物※[#「蚣のつくり/心」、第3水準1−84−41]也、近江大夫判官氏信、武藏左衞門尉景頼、生虜了行法師矢作左衞門尉[#ここから割り注]千葉介近親[#ここで割り注終わり]長次郎左衛門尉久連等、件之輩有謀反之企云々、仍諏方兵衛入道爲蓮佛之承推問子細、大田七郎康有而記詞、逆心悉顯露云々、其後鎌倉中彌騷動、諸人競集云々
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同月廿七日條に
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被誅謀反之衆又有配流之者云々、近國御家人群參如雲霞皆以可歸國之由被仰出也
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と記載するのみにて將軍廢立の理由に至りては極めて漠然たり、吾妻鏡の最後の記事なる將軍宗尊親王を廢して京都に返すの條もまた要領を得ず、盖此書の編者回護の途なきよりして事實を湮滅したるものなり
 吾妻鏡の北條氏の爲に辯護し屡曲筆に陷ること如此なるよりして見れば、余は之を以て幕府の公書類となすよりは道春の考證に從ひて北條氏の左右の手に成れる者となすの穩當なるを信ずるなり。
 吾妻鏡は惟り曲筆の少からざるのみならず更に他の理由よりして官府の日記にあらざることを證し得べし、理由の第一は、其體裁格例の一定せざる事これなり、官府の日記とは官府に奉仕するもの其職務上記注する所の日記に外ならずして、其記注の方法に至りては自一定の格例あるを常とす、繁簡は素より事實に從ひて異るべきものなれば、之を一樣ならしむること能はざれど
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