、頼家と雖、豈かゝる輩に密事を委託するの愚を學ふべき筈あらんや、愚考を以てすれば、此日の記事は、少くも其忠常に關せる部分は、翌日時政が忠常を殺す條の伏線として、之が辯明に供したる風説を登録したるに過ぎず。
 元久二年六月廿一日の條に
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牧御方請朝雅[#ここから割り注]去年爲畠山六郎被惡口[#ここで割り注終わり]讒訴、被鬱胸之、可誅重忠父子之由、内々有計議、先遠州被仰此事於相州並式部烝時房主等、兩客被申云、重忠治承四年以來、專忠直間、右大將軍依鑒其志給、可奉護後胤之旨、被遺慇懃御詞者也、就中雖候于金吾將軍御方、能員合戰之時、參御方抽其忠、是併重御父子禮之故也[#ここから割り注]重忠者遠州聟也[#ここで割り注終わり]而今以何憤可令叛逆哉、若被弃度々勳功、被加楚忽誅戮者、定可及後悔、糺犯否之眞僞之後、有其沙汰、不可停滯歟云々
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 同廿三日の條にも
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相州被申云、重忠弟親類大略以在他所、相從于戰場之者、僅百餘輩也、然者企謀反事、已爲虚誕、若依讒訴逢誅戮歟、太以不便、斬首持來于陣頭、見之不忘年來合眼之眤、悲涙難禁云々
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とあり若此等の記述にして事實ならば、義時が重忠を以て忠孝節烈の士となしこれを敬愛しこれを辯護すること至れりといふべし。而して諫めて聽かず號泣して父に從ふが如きに至りては、義時は殆儔稀なる義人孝子といふも可なるべし、此事件に付きての政子の態度をば、吾妻鏡之を明記せざれども、其後幾くもなくして起れる朝政謀反事件よりして考ふるも、政子は重忠誅戮に關しては義時も同一の意見なりと想像して大差なかるべし、然るに同年七月八日の條に
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以畠山次郎重忠餘黨等所領、賜勳功之輩、尼御臺所御計也、將軍家御幼稚之間如此云々
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 同月廿日の條に
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尼御臺所御方女房五六輩、浴新恩、是又亡卒遺也云々
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とあり、寃罪にて誅せられ廣常の後の如きは勿論、眞に其罪ありて誅せられし者の後と雖、なほ幕府より撫恤を蒙れる例もあり、傳ふる如くんば重忠秋毫の罪あるにあらず、これ鎌倉の衆目のみる所、義時政子の熟知する所なり、假令重忠の誅戮をば宥むること能はざりしにもせよ、延て其餘黨を窮追しこれが所領を奪ひ政子の計らひとして之を勳功
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