ほど活眼を以《もっ》てバイブルに対しないと、弊害が多い所以《ゆえん》である……。
で、われ等がこの際諸子に注意を促したいことは、諸子が神の啓示を判断するに当りては、須《すべか》らく自分自身に備われる智慧と知識との光に依《たよ》り、断じて経典学者の指示に依《たよ》ってはならないことである。啓示全体に漲《みなぎ》る所の精神を汲むのはよいが、一字一句の未節に拘泥することは、間違の基である。従ってわれ等の教訓を批判するに当りても、それが果して或《あ》る特殊の時代に、或《あ》る特殊の人物によりて述べられたる教訓と一々符合するか否かの穿鑿《せんさく》は無用である。われ等の教訓が、果して諸子の精神的欲求に適合するか、否か、それが果して諸子の心境の開拓に寄与する所あるか、否かによって去就を決すればよいのである。
換言すれば、われ等の教訓が、正しき理性の判断に堪《た》えるか? 精神《こころ》の糧《かて》として何《ど》れ丈の価値を有するか?――われ等の教訓の存在理由は、これを以《もっ》て決定すべきである。
正規の教会で教うるように、諸子に臣従を強うるところの神は、果して諸子の崇拝の対象たるに足りるか
前へ
次へ
全104ページ中90ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
モーゼス ウィリアム・ステイントン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング