居る。
従って彼の神学上の意見は、依然として、今でも心の何所かに残存するのであるが、ただそれは以前の如く、心の表面に跋扈《ばっこ》することがない。われ等は言わば、だましだまし彼を通信の用具に使役して居るのである。そこにわれ等の図り知られぬ苦心が存する。
人間界の批評家は、往々霊界通信を以《もっ》て、霊媒の潜在観念の表現に過ぎないという。それは或《あ》る程度当っていないでもない。何となれば霊媒の意見は、それが無害である限り、大体元のままに保存され、ただ人目につかぬ程度に、幾分修正されているに過ぎないからである。が、有害なる意見は、跡方もなく一掃されて居ることを忘れてはならない。
大体に於《おい》ていえば、われ等にとりて、信仰の形式などは実はどうでもよいのである。肝要なのは信仰の生命である。かるが故に、われ等はいつも既成の基礎工事を利用し、その上に新解釈を施すべく努力する。全体の輪廓は少しも変らないが、ただわれ等の解釈には新らしき生命が流れ、そして虚偽の分子、不健全の要素が、人知れず除かれているのである。
かの贖罪説とても、解釈の仕方によりては立派に生きて来る。汝等はキリストを救世
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