ある。曰く経典は悉《ことごと》く神自身の直接の言葉であるから、これに対して、一言半句の増減を許さない。若《も》し之に反けば破門あるのみである。曰く経典の翻訳は神慮を受けた人達の手によりて成就されたのであるから、翻訳書に対しても、亦《また》絶対服従を要する。……かかる為態《ていたらく》では経典の片言隻語《へんげんせきご》を捕えて、奇想天外の教義教条が、次第に築き上げらるる筈ではないか。
われ等の態度は、全然これと選を異にする。われ等は、バイブルが人間界に漏らされたる、啓示の集録であることを認め、之《これ》を尊重することを知っているが、しかしわれ等は、これに盲従するよりは、寧《むし》ろこれを手懸りとして、神につきての観念の、時代的進歩の跡を辿ろうとする。神は最初アブラハムの良友として、彼の天幕を訪れて食事を共にしながら懇談した。ついで神は人民を支配する大立法官となり、ついでイスラエルの万軍を指揮する大王となり、ついで予言者達の肉体を通じて号令をかける大暴君となり、最後に神は、愛の権化として崇拝の中心とせらるるようになった。これは神そのものの進歩ではなくて、神に対する人間の理解の進歩である
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