であるから、重ねて説明を加えようと思う。
宗教――健全なる霊生活――には、そこに明かに二つの方面がある。他なし、一は神に向い、一は人に向う。われ等の霊訓は、これにつきて、そもそも何事を教えんとするか?
所謂正統派の教うる神は怒り、猜《そね》む暴君であったが、霊訓の教うる神は愛の神父である。しかもそはひとり名のみの愛ではない。神の一言一行は愛から生れ、愛によりて動き、そこに、愛にあらざる何物もない。神はその創造物の最下級なものに対しても、常に正しく、常に親切である。
従って霊訓は、此《この》神に対して第三者の贖罪を必要としない。天帝は復讐的に、天則違反者に決して懲罰を与えることもなければ、又罪悪に対して、代理者の犠牲を要求することもない。况《いわ》んやこの全能の神が、天界の玉座に鎮《しず》まりて、選ばれたる者どもの恭敬に浸ることを歓び、失われたる者どもの、苦悩を見物することを楽しみとするようなことのある筈もない。
然《しか》り、われ等の教には、かかる擬人説の闖入《ちんにゅう》すべき隙間は何所にもない。神の法則の行使の上から神を考うれば、神は完全であり、純潔であり、愛であり、神聖で
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