、適当であるとは言われない。
同様に困るのはかの無学者――他日充分の準備教育を施した暁《あかつき》には、われ等の唱道する所を、咀嚼《そしゃく》翫味《がんみ》するに至るであろうが、当分まだわれ等の仕事とは没交渉である。
更にわれ等が持て剰すのは、徒《いたず》らに伝統の儀礼法式に拘泥し、固陋《ころう》尊大《そんだい》、何等精神的の新事実に興味を感ずることを知らざる人達である。物理的心霊現象ならば、或《あるい》は彼等に向くかも知れぬ。が、われ等の受持にかかる霊的通信は、恐らく彼等にとりて一篇《いっぺん》の夢物語に過ぎないであろう。
然《しか》り、われ等の痛切に求むる所は、以上の如き人達ではなく、之に反して神を知り愛と慈悲とに燃え、やがて自分の落付くべき来世生活につきての知識を求むる、素直《すなお》な魂の所有者である。が、悲しい哉、天賦的に人間に備われる宗教的本能が、いかに烈しく人為的の神学――無智と愚昧とがいつとはなしに集積せる、嗤《わら》うべきドグマの為めに歪曲され、又阻害されて居ることであろう! 彼等は真理に対して、完全に防衛されたる鉄壁である。われ等が神の啓示を口にすれば、彼等は
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