る者は、まさしく魔王の所為《しょい》に相違ないと。
われ等はかかる論法に接する時に、心から憮然たらざるを得ない。それ等の論者は多くは皆愛と熱とに富める立派な人達である。悲い哉、彼等には世界の闇を照すべき進歩的傾向がない。われ等は心からそれ等の人達を使って、通信を送りたいのであるが、われ等はその前に、彼等の向上前進を不可能ならしむる、盲信と独断の残渣《ざんさ》を一掃し去らねばならぬ。
宗教にして、真にその名に背かぬが為めには、必然的に二方面を具備せねばならぬ。他なし一は神に向い、他は人に向うのである。われ等が出発点に於《おい》て先《ま》ず訴えんとする最高の法院は、人類に具わる所の理性である。われ等は理性を要求する。何となれば古代の聖者も、ただ理性によりて、それが果して神の啓示であるか否かを決定したのであった。われ等も亦《また》理性に訴える。ヘブルューの予言者を指導した者のみが断じて神の唯一の使徒ではない。われ等も亦《また》同一の使命を帯びて現代に臨んで居る。
要するに、われ等と彼等とは全然同一である。ただわれ等の使命が、一層進歩して居るまでである。われ等の神と、彼等の神とは、そこに寸毫《すんごう》の相違もない。ただその神性が、一層よく発揮されて居る丈である。兎に角理性が最後の審判者である。理性を排斥する者は、結局自己の暗愚を告白すると同一である。盲目的信仰は、断じて理性的確信の代理たることはできない。信ずべき根柢《こんてい》のある信仰と、信ずべき根柢《こんてい》のなき信仰とは、決して同一架上のものではない。われ等はどこまでも、理性に向って訴えるものである。われ等がいかなる理由で悪魔的であるか? われ等の主張が、いかなる点に於《おい》て魔的傾向を帯びているか? これを合理的に証明することができなければ、それ等の人達の言説は、ただ一片の空言に過ぎないと謂わねばならぬ。そうした人達が教界の指導者であっては、人生も亦《また》禍《わざわい》なる哉《かな》である。
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(評釈) 今日こそ、英国人士の霊界通信に対する理解が、漸《ようや》く深まりつつあれど、今から数十年の昔に於ける迫害――殊《こと》に既成宗教団からの迫害ときては、正に狂人の沙汰であった。モーゼスを使役して通信しつつある霊達が歎息するのも、尤《もっと》もな次第である。最初はモーゼス自身すらも、
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