決して神学的ドグマから超脱し切れず、何回となく霊達に向って抗争を試みた位であった。霊達の世迷言は全く同情に値する。
 翻《ひるがえ》って日本の現状を観ると、今尚お暗雲低迷、一方に古経典《こきょうてん》の講義でもすることが、信仰上の最大急務と思い込んで居るものがあるかと見れば、他方には理性の批判に堪《た》えないどころか普通の常識にも負くるような、愚劣低級な囈語《げいご》を以《もっ》て、神懸りの産物なりと唱え、大なり、小なり始末に負えぬ特殊部落を作って、神聖なる国土を汚している連中が甚《はなは》だ多い。モーゼスの背後の霊をして批評させたら、果して何と言うであろうか?
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      第八章 神霊主義

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問『霊界の指示は、余りにも正統派の教条と、相反する点が多いと思われるが…………。』
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 霊界居住者の主張[#「霊界居住者の主張」に白丸傍点]――爾《なんじ》はわれ等の伝達する教訓が、在来の所謂正統派の教条と、相反する箇所の多きを認め、これに反対の態度を執ろうとするが、これは極めて重大事であるから、重ねて説明を加えようと思う。
 宗教――健全なる霊生活――には、そこに明かに二つの方面がある。他なし、一は神に向い、一は人に向う。われ等の霊訓は、これにつきて、そもそも何事を教えんとするか?
 所謂正統派の教うる神は怒り、猜《そね》む暴君であったが、霊訓の教うる神は愛の神父である。しかもそはひとり名のみの愛ではない。神の一言一行は愛から生れ、愛によりて動き、そこに、愛にあらざる何物もない。神はその創造物の最下級なものに対しても、常に正しく、常に親切である。
 従って霊訓は、此《この》神に対して第三者の贖罪を必要としない。天帝は復讐的に、天則違反者に決して懲罰を与えることもなければ、又罪悪に対して、代理者の犠牲を要求することもない。况《いわ》んやこの全能の神が、天界の玉座に鎮《しず》まりて、選ばれたる者どもの恭敬に浸ることを歓び、失われたる者どもの、苦悩を見物することを楽しみとするようなことのある筈もない。
 然《しか》り、われ等の教には、かかる擬人説の闖入《ちんにゅう》すべき隙間は何所にもない。神の法則の行使の上から神を考うれば、神は完全であり、純潔であり、愛であり、神聖で
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