、適当であるとは言われない。
 同様に困るのはかの無学者――他日充分の準備教育を施した暁《あかつき》には、われ等の唱道する所を、咀嚼《そしゃく》翫味《がんみ》するに至るであろうが、当分まだわれ等の仕事とは没交渉である。
 更にわれ等が持て剰すのは、徒《いたず》らに伝統の儀礼法式に拘泥し、固陋《ころう》尊大《そんだい》、何等精神的の新事実に興味を感ずることを知らざる人達である。物理的心霊現象ならば、或《あるい》は彼等に向くかも知れぬ。が、われ等の受持にかかる霊的通信は、恐らく彼等にとりて一篇《いっぺん》の夢物語に過ぎないであろう。
 然《しか》り、われ等の痛切に求むる所は、以上の如き人達ではなく、之に反して神を知り愛と慈悲とに燃え、やがて自分の落付くべき来世生活につきての知識を求むる、素直《すなお》な魂の所有者である。が、悲しい哉、天賦的に人間に備われる宗教的本能が、いかに烈しく人為的の神学――無智と愚昧とがいつとはなしに集積せる、嗤《わら》うべきドグマの為めに歪曲され、又阻害されて居ることであろう! 彼等は真理に対して、完全に防衛されたる鉄壁である。われ等が神の啓示を口にすれば、彼等は、過去に於《おい》て現れたる啓示を以《もっ》て完全無欠となし、新らしきものを受け納れる心の余地を有しない。若《も》しもわれ等が、古代の啓示の矛盾を指摘し、何《いず》れの啓示も、決して円満《えんまん》具足《ぐそく》を以《もっ》て任ずるものでないことを告ぐれば、彼等はドグマだらけの神学者の常套語などを傭《やと》い来《きた》りて、自家の主張の防衛につとめる。要するに彼等は或《あ》る特殊の場合に、或《あ》る特殊の目的を以《もっ》て現れたる、古経典《こきょうてん》の片言隻語《へんげんせきご》を以《もっ》て、一般的真理なりと思考して居るから困るのである。
 全く以《もっ》て度し難きは、かの盲信の徒である。われ等は止むことを得ず、時として何等《なんら》かの奇蹟を以《もっ》て、われ等の使命の実有性を証明すべく試みるが、これも彼等に対して殆《ほとん》ど効果がない。彼等は言う、奇蹟の時代はすでに過ぎた。奇蹟はただ古代の聖者にのみ許されたものである。現在現れつつある奇蹟は、実は神の仕業を摸倣しつつある、悪魔の欺騙《きへん》に過ぎない。真理を以《もっ》て信仰の上に置き、神の御子の絶対性《ぜったいせい》を否定す
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