永遠不滅の適合性が、両者の霊的教育に不可欠の要素として役立つからである。斯《こ》うした場合には勿論《もちろん》地上の夫婦関係は永遠に続くといえる。少くとも愛の生活が、相互の利益である間は、一緒に住んでいるが、或る時期に達して、別れて住むことが望ましくなれば、彼等は何の未練もなしに、各自の行くべき途《みち》を辿る。何となれば、こちらの世界では交通は物の数《かず》でなく、離れていても、立派に相互の胸奥《きょうおう》を伝《つた》えることができるからである。強いてこの法則を破ることは、徒《いたず》らに不幸の種子であり、進歩の敵である。霊界の規則は断じて之《これ》を許さない。
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問『夫婦というものは、精神的又道徳的には、必ずしも同一線上に居なくても、立派に愛し合っていられると思うが……。』
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愛する魂[#「愛する魂」に白丸傍点]――むろん相互愛に充たされたる夫婦は、永久に別れて了《しま》うことはできない。兎角《とかく》人間の考《かんがえ》は、時間と空間とに拘束されているので、われ等の住む世界の真相が、腑に落ち難いようである。愛する魂と魂とは、空間的にはいかに離れていても、実際に於《おい》ては、極めて親密に結合しているのである。われ等には時間もなければ、又空間もない。無論真の理想的の一致というのは、両者の智能までも、全然同一水平線上にある場合であるが、実際問題とすれば、それは殆《ほとん》ど不可能に近い。魂と魂とが愛情の絆《きずな》で結ばれて居れば、それで立派な夫婦であり、智能的には、必ずしも同一程度であるを要しない。愛はいかなる距離をも結合する力がある。それは幼稚不完全なる地上生活に於《おい》てすら然《しか》りである。二人の兄弟が、相互の間を幾千万里の海洋によりて隔てられ、幾年幾十年に亘《わた》りて、ただの一度も会見の機会なく、しかもその業務がすっかり相違しているにも係らず、彼等の間には、立派に愛情が存在し得るではないか。夫婦となれば、その心情は一層不思議で、日頃自分を呵責《さいな》むばかり、優《やさ》しい言葉一つかけてくれぬ自堕落の亭主を、心から愛する世話女房が、あちこちに発見される。
無論死は直ちに彼女を奴隷的苦境から解放する。彼女の方では上昇し、之《これ》に反して良人の方では下降する。が、愛の絆はこれが
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