の懸隔は、これを如何ともするに由《よし》なく、ただ空しく、遠方から淪落《りんらく》の痴漢の暗き行末を、あわれみの眼もて見送るより外に、せん術《すべ》がないのである。
 この種の悪徳の撲滅には、必然的に多大の歳月を要する。何となれば悪は悪を生み罪は罪を孕み、容易にその根絶を期し難いからである。悪徳はただ民族全体の道徳的並に物質的の発達と、高尚な知識の普及と、又《また》真の意義ある教育の進歩とによりてのみ、次第次第に剪除《せんじょ》されて行くのみである。地上の人類が、現在の如《ごと》き非合理的法律を墨守《ぼくしゅ》して居る限り、先《ま》ず改善の見込は絶無であろう。
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問『無邪気な小児は、死後直ちに上界に進むか?』
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 貴重なる地上生活[#「貴重なる地上生活」に白丸傍点]――否、地上生活の経験は、甚《はなは》だ貴重なもので、断じて之《これ》を度外視することはできない。無論小供達には罪穢が少ないから、浄化作用の為めの境涯、所謂練獄の境涯を、迅速に通過することは事実である。が、知識と経験の不足は、之《これ》を死後の教練によりて補充せねばならぬ。霊界には、無邪気な子女を教育すべき専門の霊達が控えて居て、彼等の求むる所を遺憾《いかん》なく充たすのである。地上生活を短かく切り上ぐる事は、決して本人の利益ではない。強いていえば、ただ与えられたる地上生活の悪用をせずに済むという、消極的の利益位のものである。魂にとりて最も理想的な生活は、四六時中《しろくじちゅう》些《いささか》の油断なく、自己に与えられたる天職を睨みつめ、一心不乱に自己の向上と同時に、同胞の幸福を図り、神を愛し敬い、そして忠実に自己の守護霊達の指示を儼守《げんしゅ》することである。そうした魂には、汚染の分子が少いから、従って進歩が迅《はや》い。ありとあらゆる形式の虚栄と利己主義、すべての種類の怠慢と懶惰《らんだ》、又《また》何等《なんら》かの形で行わるる放縦《ほうじゅう》と我儘《わがまま》――これ等《ら》は皆《みな》向上前進の大敵である。魂にとりて最大の味方は、愛[#「愛」に丸傍点]と知識[#「知識」に丸傍点]の二つである。帰幽せる小児は、天賦的に前者を具えていることもある。が、後者は是非とも之《これ》を教育の力に待たねばならぬ。夭折《ようせつ》せる小児の
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