。すべての魂は、その善霊たると悪霊たるとを問わず悉《ことごと》く神界の統治下に置かれて居る。
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(評釈) 本章説く所は、大体平明で、穏健であるから、さして評釈の必要もないと思うが、初学者の為めに、念の為めに二三の注意を試みることにする。
『真人の出現』の条下に於《おい》て、数十年前に予言されたことが、現在に於《おい》ていよいよ地上に出現しつつあることは驚歎すべきである。今や世界全土に亙《わた》りて普及しつつある神霊運動の前には何物も抵抗すべくもない。世界で一番後一番後※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しになった日本国でも、最早《もはや》その傾向が顕著になった。慾《よく》にはここ両三年の努力で、日本をして、この運動のトップを切らせたいものである。
『指導霊の性質』条下には、指導霊とその指導を受くる人間との、深い因縁を説いているが、今日われわれが心霊実験を行えば行うほど、それが真理であることを発見する。与うる者と、与えられる者とは、常にぴったり心の波長が合ったものである。かるが故《ゆえ》に人間を観れば、大体その背後のものが判る。下らない人格の所有者に、立派な神霊の感応するようなことは絶対にない。世人《せじん》断じて山師的宗教家の口車などに乗って、迷信家の仲間入りをしてはならない。
『悪霊の存在』の条下に、『魔群と称するものは、低級未発達の魂の集団である』と、のべてあるのは至言である。『悪』とはつまり『不完全』、又は『未発達』の代名詞で、純粋の悪霊そのものは存在せぬ。どんな悪霊でも、最後には皆《みな》浄化し、美化し、善化する。従ってどんな悪霊でも悉《ことごと》く神の子であり、神界の統治下にあるのである。抽象的の善玉、悪玉の永遠の争闘《そうとう》の如き思想は、一時も早く排斥すべきである。同時に霊界を一の清浄無垢の理想境と考える事も、亦《また》飛んでもない迷妄である。霊界は現界と同じく、玉石混淆《ぎょくせきこんこう》の差別の世界で、寸刻《すんこく》の油断もできない。これを知らずに幽明交通をするから、そこに多大の弊害が起るのである。初学の士は最初|成《な》るべく学識経験の積んだ指導者に就《つ》きて、這間の消息に通ずべく心懸けるのが安全であろう。
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第二章 健全な生活
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