るほど慨歎《がいたん》すべきものはない。汝《なんじ》は優勢なる魔群の存在を不思議に思うらしいが、事実はその通りであり、而《し》かもそは毫《ごう》も怪むに足らぬ。魂は地上生活そのままの姿で、彼岸に歩み入るのである。その趣味、好尚《こうしょう》、習慣、反感等、生前死後を通じて、毫《ごう》も変るところがない。変る所はただ肉体の有無のみである。地上にあって趣味低く、素行修まらざるものは、地の世界を脱《のが》れたとて、依然として旧態を守り、これと同様に、地上にありて品性の高潔なるもの、志操《しそう》の確実なるもの、向上心の強きものは、死後に於《おい》て、決して悪魔の徒弟とはならない。汝《なんじ》がこれしきの真理を会得せぬこそ、寧《むし》ろ意外である。すべては儼然《げんぜん》たる因果の理法の現れで、金は飽《あく》まで金、鉛は最後まで鉛である。魂の品質は、決して一朝一夕の所産でない。そは霊性の中に織り込まれたる綾であり、模様であり、両者を切り離すことは、到底不可能である。就中《なかんずく》畏《おそ》るべきは習癖《しゅうへき》の惰力である。習癖《しゅうへき》は深く魂の中に喰い入りて、しばしば個性の主要部となるに至るもので、一たん肉感肉慾の誘惑にかかった魂は、終にその奴隷とならずんば止まぬ。彼は到底清純無垢の境地に安住し得ない。彼の望むところは、お馴染の魔窟であり、悪習慣である。友は友を呼び、類は類を以《もっ》て集まるのであるから、施《ほどこ》す術《すべ》がないのである。かるが故《ゆえ》に、われ等の所謂魔群と称するものは、低級未発達の集団に外ならない。彼等が向上進歩すべき唯一の望みは、ただ悔悟《かいご》と、高級霊の指導と、又一歩一歩に、罪深き悪習慣から脱却すべき永遠の努力とより以外には絶対にない。そう言った未発達の霊魂の数は実に多い。従ってその威力は決して侮るべきでない。かの悪の存在を否定し、有力なる魔群の存在を否定するが如《ごと》き思想は、実に人類を誘惑せんが為めに、構造されたる、悪魔の甘言と思考すべきである。
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問『魔群にも一人の司配者があるか?』
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すべては神界の統治下[#「すべては神界の統治下」に白丸傍点]――魔群の頭領の数は多い。が、神学者の唱道《しょうどう》するが如《ごと》き、大魔王と言ったものは存在せぬ
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