る者に慰安を与え、探る者に手懸りを与えつつある。現代とても在来の経典を以《もっ》て満足し、更に一歩を進めて真理の追窮《ついきゅう》に当ろうとする、気魄《きはく》のとぼしき者は多いであろう。それ等に対してわれ等は頓着《とんじゃく》せぬ。が、過去の示教《しきょう》に満足し得ず、更に奥へ奥へと智識の渇望を医《いや》せんとする好学の士も、亦《また》決して尠《すくな》くない。われ等は神命によりて、それ等を指導せんとするものである。かくて真理は甲から乙へ、乙から丙へと、次第次第に四方に伝播《でんぱ》し、やがて高山の頂巓《ちょうてん》から、世界に向って呼びかけねばならぬ時代も到着する。見よ、その時、この隠れたる神の児達が、大地の下層より蹶起《けっき》して、自己の体得し、又体験せるところを、堂々と証言するであろう。最初は細き谷川の水も、やがて相合して、爰《ここ》に神の真理の大河となり、洋々として大地を洗い、その不可抗の威力の前には、現在|汝等《なんじら》を悩ます痴愚《ちぐ》も、不信も、罪悪も、虚偽も皆《みな》跡方もなく一掃せられて了《しま》うであろう。
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問『近代の天啓と古代の天啓とは同一か?』
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天啓は皆同根[#「天啓は皆同根」に白丸傍点]――天啓は皆《みな》神から出る。或《あ》る時代に現れた啓示と、他の時代に現れた啓示との間に、矛盾衝突のある筈はない。すべては皆《みな》真理の啓発を期図《きと》したものに外ならぬ。が、人間の要望と、能力とには多大の相違があるので、真理を盛れる形式は、必ずしも同一ということはできぬ。両者が矛盾するが如《ごと》く見ゆるのは、少しも神の言葉にあるにあらずして、皆《みな》人間の心にあるのである。神の言葉は常に単純である。人間はこれに満足することができず、或《あるい》は注釈を以《もっ》てこれに混ぜ、或《あるい》は推理推論を以《もっ》て之《これ》を包んだ。かくて歳月の経過と共に、神より出でしものが、いつしかその本来の面目を失い、矛盾、撞着《どうちゃく》、虚妄、愚劣の不純分子を以《もっ》て充たさるるに至った。かるが故に、新たなる啓示が出現した時には、先《ま》ず以《もっ》て、旧《ふる》い啓示の上に築き上げられた迷信の大部分を掃蕩《そうとう》するの必要に迫られる。先《ま》ず以《もっ》て破壊した後で
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