よりは、いままでのように誰にも気づかれずに婢としてはかなく埋もれていた方がどんなに益《ま》しか知れなかった。……
「己《おれ》はおまえを何処かで見たようなふしぎな気がしてならない。」男はもの静かに言った。
女は相変らず袖を顔にしたぎり、何んといわれようとも、懶《ものう》げに顔を振っているばかりだった。
館のそとには、時おりみずうみの波の音が忍びやかにきこえていた。
そのあくる夜も、女は守のまえに呼ばれると、いよいよ身の置きどころもないように、いかにもかぼそげに、袖を顔にしながら其処にうずくまっていた。女は相変らず一ことも物を言わなかった。
夜もすがら、木がらしめいた風が裏山をめぐっていた。その風がやむと、みずうみの波の音がゆうべよりかずっとはっきりと聞えてきた。おりおり遠くで千鳥らしい声がそれに交じることもある。守はいたわるように女をかきよせながら、そんなさびしい風の音などをきいているうちに、なぜか、ふと自分がまだ若くて兵衛佐《ひょうえのすけ》だった頃に夜毎に通っていた或女のおもかげを鮮かに胸のうちに浮べた。男は急に胸騒ぎがした。
「いや、己の心の迷いだ。」男はその胸の静まる
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