がことに女には苦しかったけれども、どうすることもその力には及ばなかった。
 再び春の立ち返った或夕方、女は端近くにいた夫を前にして、この日頃思いつめていたことを口にする決心が漸《や》っとそのときついたように、こんなことを言い出した。
「わたくし達もこの儘《まま》こうして暮らして居りましては、あなた様のおためではないのが漸っとはっきりと分って参りました。父母のおりました間は、それでもまだ何かとお支度などもお調えしてさし上げられておりました。けれども、こう何かと不如意になって来ましては、それも思うにまかせなくなり、お出仕の折などにさぞ見苦しいお思いもなされることがおありでございましょう。ほんとうに私のことなどは構いませぬから、どうぞあなた様のお為めになるようになすって下さいませ。」
 男はじっと黙って聞いていた。それから急に女を遮った。「ではこの己《おれ》にどうせよといわれるのか。」
「ときどきわたくしのことが可哀そうにお思いになりましたなら――」女は切なげに返事をした。「余所《よそ》へいらしっていても、その折にはどうぞいつでも入らっして下さいませ。どうしていまの儘では、見苦しい思いをなさ
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