まざまざと蘇《よみがえ》るようになり出した。
 その春も末にちかい、或日の暮れがた、男はとうとう女恋しさにいてもたってもいられなくなったように、思い切って西の京の方へ出かけて往った。
 其処いらは小路の両側の、築土も崩れがちで、蓬《よもぎ》のはびこった、人の住まっていない破れ家の多いようなところだった。漸《ようや》く以前通いなれた女の家のあたりまで来て見ると、倒れかかった門には葎の若葉がしげり、藪《やぶ》には山吹らしいものがしどろに咲きみだれていた。
「こんなに荒れているようでは、もう誰もここにはいまい。」男は心のなかでそう考えた。
 おそらくその女も他の男に見いだされて余所に引きとられてしまったのだろうと詮《あきら》めると、その女恋しさを一層《ひとしお》切に感じ出しながら、その儘では何か立ち去りがたいように、男はなおあたりを歩いていた。すると、築土のくずれが、一ところ、童でもふみあけたのか、人の通れるほどになっていた。男は何の気なしに其処からはいって見ると、もとは何本もあった大きな松の木は大てい伐り倒されて、いまは草ばかりが生い茂っていた。古池のまわりには、一めんに山吹が咲きみだれてい、そのずっと向うの半ば傾いた西の対の上にちょうど夕月のかかっているのが、男にははじめてそれと認められた。その対の屋の方は真っ暗で、人気はないらしかった。それでも男はそちらに向って女の名を呼んで見た。勿論、なんの返事もなかった。そうなると男は女恋しさをいよいよ切に感じ出し、袖にかかる蜘《くも》の網《い》を払いながら、山吹の茂みのなかを掻き分けていった。男はもう一度空しく女の名を呼んだ。男はそのとき思いがけず反対の側にある対の屋からかすかな灯の洩れているのを見つけた。男は胸を刺されるような思いをしながら、そちらの方へさらに草を掻き分けて往って、最後に女の名を呼んだ。返事のないのは前と変りはなかった。男は草の中から其処には一人の尼かなんぞいるらしいけはいを確かめると、頭を垂れた儘、もと来た道をあとへ引っ返した。もう昔の女には逢われないのだと詮め切ると、それまで男の胸を苦しいほど充たしていた女恋しさは、突然、いい知れず昔なつかしいような、殆ど快いもの思いに変りだした。……

 なかば傾いた西の対の、破れかかった妻戸《つまど》のかげに、その夕べも、女は昼間から空にほのかにかかっていた繊《ほそ》い月をぼんやり眺めているうちに、いつか暗《やみ》にまぎれながら殆どあるかないかに臥せっていた。
 そのうちに女は不意といぶかしそうに身を起した。何処やらで自分の名が呼ばれたような気がした。女の心はすこしも驚かされなかった。それはこれまでも幾たびか空耳にきいた男の声だった。そうしてそのときもそれは自分の心の迷いだとおもった。が、それからしばらくその儘じっと身を起していると、こんどは空耳とは信ぜられないほどはっきりと同じ声がした。女は急に手足が竦《すく》むように覚えた。そうして女は殆どわれを忘れて、いそいで自分の小さな体を色の褪《さ》めた蘇芳《すおう》の衣のなかに隠したのが漸《や》っとのことだった。女には自分が見るかげもなく痩《や》せさらばえて、あさましいような姿になっているのがそのとき初めて気がついたように見えた。たとい気がついていたにせよ、そのときまでは殆ど気にもならなかった、自分のそういうみじめな姿が、そんなになってまだ自分の待っていた男に見られることが急に空怖ろしくなったのだった。そうして女は何も返事をしようとはせず、ただもう息をつめていることしか出来なくなっている自分の運命を、われながらせつなく思うばかりだった。それからまだしばらく池のほとりで草の中を人の歩きまわっている物音が聞えていた。最後に男の声がしたときは、もう女のいる対の屋からは遠のいて、向いの尼のいる対の屋の方へ近づき出しているらしかった。それからもう何んの物音もしなくなった。
 すべては失われてしまったのだ。男は其処にいた。其処にいたことはたしかだ。それを女にたしかめでもするように、男の歩み去った山吹の茂みの上には、まだ蜘の網が破れたままいくすじか垂れさがって夕月に光って見えた。女はその儘|荒《あば》らな板敷のうえにいつまでも泣き伏していた。……

   三

 それから半年ばかり立った。
 近江の国から、或|郡司《ぐんじ》の息子が宿直《とのい》のために京に上って来て、そのおばにあたる尼のもとに泊ることになったのは、ちょうど秋の末のことだった。
 それから何日かの後、郡司の息子が異様に目を赫《かが》やかせながら言った。「きのうの夕方、向うの壊れ残りの寝殿に焚《た》きものを捜しに往きますと、西の対にちょうど夕日が一ぱいさし込んでいて、破れた簾《すだれ》ごしにまだ若そうな女のひとが一人、いかにも物思わ
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング