いたわり尽すようにしていた。それが逢う毎に女にはたまらなく思われて、どうしたらいいのか、ただもうあぐね果てるばかりだった。
 とうとうまた、或夕方、女はこらえかねたように言った。
「いつまでもこうしてわたくしと一緒にいて下さるのは、わたくしは嬉しがらなくてはならないのですが、どうもそれ以上に心苦しくてなりませぬ。わたくしはこうしてあなたのお傍に居りましても、あなたのそのお窶《やつ》れになったお姿を見ることが出来ませぬ。のみならず、この頃あなた様はわたくしに隠して、何かお考えになっていらっしゃるのでしょう。なぜそれをわたくしに言っては下さらぬのです。」
 男は物を言わずに、女をしばらく見ていた。
「己がおまえに隠して考えごとなどをしているものか」と男は何か言いにくそうに口をきいた。「おまえが自分のことに構わずに、己のことばかり構おうとしているのが己には窮屈でならないのだ。己だって、もう少ししたら、どうにかなるだろう。そうすれば、おまえ一人位はどうにでもしてやれるのだ。それまで、いま少し、辛抱していてくれ。」
 男はそう言ながら、ひと時、いかにもいたいたしそうな目つきで女を見た。しかし女はいつかそこに袖を顔にして泣き伏していた。男はしげしげと女の波うっている黒髪を見ていた。それから自分も急に目をそらせて、ふいと袖を顔にもっていった。
 男がその女の家に姿を見せなくなったのは、それから何日もたたないうちだった。

   二

 男が黙ってふいに立ち去ってから、それでも女はなお男を心待ちにしながら、幾人かの召使いを相手に、さびしい、便りない暮らしを続けていた。が、それきり男からは絶えて消息さえもなかった。女にとっては、それは自分から望んだこととはいえ、たまらなく不安だった。待つことの苦しみ、――何物も、それを紛《まぎ》らせてはくれなかった。それでも女はまだしもそのなかに一種の満足を見いだし得た。――だが、いつまで立っても、男のかえって来るあてのないことが分かって来ると、わずかに残っていた召使いも誰からともなく暇をとり出し、みな散り散りに立ち去って往つた。
 一年ばかりのあとには、女のもとにはもう幼い童《わらわ》が一人しか残っていなかった。その間に、寝殿《しんでん》は跡方もなくなり、庭の奥に植わっていた古い松の木もいつか伐《き》り取《と》られ、草ばかり生い茂って、いつのまにか葎《むぐら》のからみついた門などはもう開らかなくなっていた。そうして築土《ついじ》のくずれがいよいよひどくなり、ときおり何かの花などを手にした裸か足の童がいまは其処から勝手に出はいりしている様子だった。
 なかば傾いた西《にし》の対《たい》の端に、わずかに雨露をしのぎながら、女はそれでもじっと何物かを待ち続けていた。
 最後まで残っていた幼い童もとうとう何処かに去ってしまった跡には、もう一方の崩れ残りの東の対の一角に、この頃田舎から上ってきた年老いた尼が一人、ほかに往くところもないらしく、棲《す》みついていた。それは昔この屋形で使われていた召使いの縁者だった。そうしてその尼は此の女をかわいそうに思って、ときどき余所《よそ》から貰ってくる菓子や食物などを持って来てくれた。しかしこの頃はもう女にはその日のことにも事を欠くことが多くなり出していた。――それでもなお女はそこを離れずに、何物かを待ち続けているのを止めなかった。
「あの方さえお為合《しあわ》せになっていて下されば、わたくしは此の儘《まま》朽《く》ちてもいい。」
 そう思うことの出来た女は、かならずしも、まだ不為合せではなかった。

 男にとっては、その一二年の月日はまたたく間に過ぎた。
 しかしその間、男は一日も前の妻のことを忘れたことはなかった。が、何かと宮仕が忙しかった上、あらたに通い出していた伊予《いよ》の守《かみ》の女の家で、懇ろに世話をせられていると、心のまめやかな男だっただけ、彼等を裏切らないためにも、男はつとめて前の妻のところからは遠ざかり、胸のうちでは気にかけながらも、音信さえ絶やしていた。
 最初のうちは、それでも男は幾たびか、人目に立たないようにわざと日の暮を選んで、前の女のいる西の京の方へ往きかけた。が、朝夕通いなれた小路に近づいて来ると、急に何物かに阻《こば》まれるような心もちで、男はその儘引っ返して来た。男はこんなことで、心にもなく女とも別れなければならなくなる運命を考えた。
 しかし、その儘女にも逢わずに月日が立つにつれ、もう忘れていてもいいはずのその女のことを何かのはずみに思い出すと、その女の、袖を顔にした、さびしい、俯伏《うつぶ》した姿が前にも増して鮮明に胸に浮んで来てならなかった。そうしてとうとうしまいには、その女のそうしているときの息づかいや、やさしい衣《きぬ》ずれの音までが
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