しげに臥せっているのがくっきりと見えましたので、私はおどろいてその儘《まま》帰って来てしまいましたが、あれはどなたなのですか。」
 尼は当惑そうに、しかしもう見つけられてしまっては為方《しかた》がないように、その女の不為合せな境涯を話してきかせた。郡司《ぐんじ》の息子はさも同情に堪えないように、最後まで熱心に聞いていた。
「そのお方にぜひとも逢わせて下さい。」息子は再び目を異様に赫《かが》やかせながら、田舎者らしい率直さで言った。「そのお方のほうでもその気になって下されば、わたしが国へ帰るとき一緒にお伴《つ》れして、もうそのようなお心細い目には逢わせませんから。」
 尼は、それを聞くと、まあこんな自分の甥ごときものがと思いながら、それでも彼の言うように女も一そそんな気もちにでもなった方が行末のためにもなるのではないかと考えもした。
 尼はいくぶん躊躇《ちゅうちょ》しながらも、何時かその甥の申出を女に伝えることを諾《うべな》わないわけにはいかなかった。

 或|野分《のわき》立った朝、尼はその女のもとに菓子などを持って来ながら、いつものように色の腿《さ》めた衣をかついだ女を前にして、何か慰めるように、
「あなた様もどうして此の儘でいつまでも居られましょう」と言いだした。「こんなことはわたくしとしては申し上げ悪《にく》いことですけれど、いまわたくしの所に近江からいささか由縁《ゆかり》のありますものの御子息が上京せられて来ておられますが、そのものがあなた様のお身の上を知って、ぜひとも国へお伴れしたいと熱心にお言いになって居りますけれど、いかがでございましょうか、一そそのもののお言葉に従いましては。此の儘こうして入らっしゃいますよりは、少しはましかと存じますが。」
 女はそれには何にも返事をしないで、空しい目を上げて、ときおり風に乱れている花薄《はなすすき》の上にちぎれちぎれに漂っている雲のたたずまいを何か気にするように眺めやっていたが、急に「そうだ、わたくしはもうあの方には逢われないのだ」とそんなあらぬ思いを誘われて、突然そこに俯伏《うつぶ》してしまった。
 夜なかなどに、ときおり郡司の息子が弓などを手にして、女の住んでいる対《たい》の屋《や》のあたりを犬などに吠《ほ》えられながら何時までもさまようようになったのは、そんな事があってからのことだった。夜もすがら、木がらしが萩や薄などをさびしい音を立てさせていた。どうかすると、ひとしきり時雨《しぐれ》の過ぎる音がそれに交じって聞えたりした。そうでなければ、郡司の息子が、ときどき自分の怖ろしさを紛《まぎ》らせようとでもするのか、あちこちと草の中を歩きまわっていた。……
 そんな夜毎に、女は妻戸をしめ切って、ともし火もつけず、身の置きどころもないかのように、色の腿めた衣をかついだまま、奥のほうにじっとうずくまっていた。かくも荒れはてた棲《す》み家《か》では、奥ぶかくなどにじっとしていると、その儘何かの物のけにでも引っ張り込まれていってしまいそうな気がされて、女は怯《おび》え切り、殆ど寐《ね》られずに過ごすことが多いのだった。
 或しぐれた夕方、尼は女のところに来ると、いつものように沁々《しみじみ》と話し込んでいた。「ほんとうにいつまで昔のままのお気もちでいらっしゃるのでございましょう。」尼はことさらに歎息するように言った。「それは今のようにでもして居られますうちはまだしも、此のわたくしでも若《も》しもの事がございましたら、どうなさるお積りなのですか。しかし、やがてそういうときの来ることは分かっています。」
 女は数日まえのことを思い出した。――数日まえ、尼にその話をはじめて切り出されたとき、突然はっとして「自分はもうあのお方には逢われないのだ」と気づいたときのいまにも胸の裂けそうな思いのしたことを思い出した。あのときから女の心もちは急に弱くなった。それまでのすべての気強さは――畢竟《ひっきょう》、それはいつかは男に逢えると思っての上での気強さであった。――女はもう以前の女ではなかった。
 その晩、尼は郡司の息子をその女のもとへ忍ばせてやった。

 それから夜毎に郡司の息子は女のもとへ通い出した。
 女はもう詮方《せんかた》尽《つ》きたもののように、そんなものにまですべてをまかせるほかなくなった自分の身が、何だかいとおしくていとおしくてならないような、いかにも悔《く》やしい思いをしながら、その男に逢いつづけていた。
 漸《ようや》く任が果てて、その冬のはじめに近江へ帰らなければならなくなったときには、郡司の息子はもうすっかり此の女に睦《むつ》んで、どうしてもその儘女を置きざりにして往く気にはなれずにしまった。
 女はそれを強いられる儘に、京を離れるのはいかにもつらかったけれど、しかし自分の余
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