りにもつたなかった来しかたに抗《あがら》うような、そうして何か自分の運を試めしてみるような心もちにもなりながら、その郡司の息子について近江に下っていった。
四
しかしその郡司の息子には、国元には、二三年前にめとった妻が残してあった。そうして親達の手まえもあり、息子は、その京の女をおもてむき婢《はしため》として伴れ戻らなければならなかった。
「そのうちまた、わたくしは京に上るはずです。」息子は女を宥《なだ》めるようにして言った。「その折にはきっと妻として伴れて往きますから、それまで辛抱していて下さい。」
女はそんな事情を知ると、胸が裂けるかと思うほど、泣いて、泣いて、泣き通した。――すべての運命がそこにうち挫《くじ》かれた。
が、一月たち二月たちしているうちに、――殆ど誰にも気どられずに婢として仕えているうちに、――こうしている現在の自分がその儘でまるきり自分にも見ず知らずのものでもあるかのような、空虚《うつろ》な気もちのする日々が過ごされた。いままでの不為合せな来しかたが自分にさえ忘れ去られてしまっているような、――そうして、そこには、自分が横切ってきた境涯だけが、野分のあとの、うら枯れた、見どころのない、曠野《あらの》のようにしらじらと残っているばかりであった。「いっそもうこうして婢として誰にも知られずに一生を終えたい」――女はいつかそうも考えるようになった。
此処に、女は、まったく不為合せなものとなった。
山一つ隔てただけで、こちらは、梢にひびく木がらしの音も京よりは思いのほかにはげしかった。夜もすがら、みずうみの上を啼《な》き渡ってゆく雁もまた、女にとっては、夜々をいよいよ寝覚めがちなものとならせた。
それから数年後の、或年の秋、その近江の国にあたらしい国守が赴任して来て、国中が何かとさわぎ立っていた。
国内の巡視に出た近江の守の一行が、方々まわって歩いて、その郡司の館のある湖にちかい村にかかったときは、ちょうど冬の初で、比良《ひら》の山にはもう雪のすこし見え出した頃だった。
その日の夕ぐれ、丘の上にあるその館では、守《かみ》は郡司たちを相手にして酒を酌みかわしていた。
館のうえには時おり千鳥のよびかう声が鋭く短くきこえた。――すっかり葉の落ち尽した柿の木の向うには、枯蘆《かれあし》のかなたに、まだほの明るいみずうみの上がひっそりと眺められた。
守《かみ》は、すこし微醺《びくん》を帯びたまま、郡司《ぐんじ》が雪深い越《こし》に下っている息子の自慢話などをしているのをききながら、折敷《おしき》や菓子などを運んでくる男女の下衆《げす》たちのなかに、一人の小がらな女に目をとめて、それへじっと熱心な眼ざしをそそいでいた。他の婢《はしため》と同様に、髪は巻きあげ、衣も粗末なのをまとってはいたが、その女は何処やら由緒ありそうに、いかにも哀れげに見えた。その女をはじめて見たときから、守の心はふしぎに動いた。
宴の果てる頃、守は一人の小舎人童《ことねりわらわ》を近くに呼ぶと、何かこっそりと耳打ちをした。
その夜遅く、京の女は郡司のもとに招ぜられた。郡司は女に一枚の小袿《こうちぎ》を与えて、髪なども梳《す》いて、よく化粧してくるようにと言いつけた。女は何んのことか分からなかったが、命ぜられたとおりの事をして、再び郡司の前に出ていった。
郡司はその女の小袿姿を見ると、傍らの妻をかえりみながら、機嫌好さそうに言った。「さすがは京の女じゃ。化粧させると、見まちがうほど美しゅうなった。」
それから女は郡司に客舎の方へ伴《つ》れて往かれた。女は漸《や》っと事情が分って来ても、押し黙って、郡司のあとについてゆきながら、何か或強い力に引きずられて往きでもしているような空虚な自分をしか見出せなかった。
守の前に出されると、ほのぐらい火影《ほかげ》に背を向けた儘《まま》、女は顔に袖を押しつけるようにしてうずくまった。
「おまえは京だそうだな。」守はそこに小さくなっている女のうしろ姿を気の毒そうに見やりながら、いたわるように問うた。
「…………」女はしかし何とも答えなかった。
そうして女は数年まえのことを思い出した。――数年まえには、田舎上りの見ず知らずの男に身をまかせて京を離れなければならなかった自分が自分でもかわいそうでかわいそうでならなかった。そうしてそのときは相手の男なんぞはいくらでもさげすめられた。が、こんどと云うこんどは、その相手がかえって立派そうなお方であるだけに、そういう相手のいいなりになろうとしている自分が何だか自分でもさげすまずにはいられないような――そうしていくら相手のお方にさげすまれても為方《しかた》のないような――無性にさびしい気もちがするばかりだった。女にしてみると、こうして見出される
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