よりは、いままでのように誰にも気づかれずに婢としてはかなく埋もれていた方がどんなに益《ま》しか知れなかった。……
「己《おれ》はおまえを何処かで見たようなふしぎな気がしてならない。」男はもの静かに言った。
 女は相変らず袖を顔にしたぎり、何んといわれようとも、懶《ものう》げに顔を振っているばかりだった。
 館のそとには、時おりみずうみの波の音が忍びやかにきこえていた。

 そのあくる夜も、女は守のまえに呼ばれると、いよいよ身の置きどころもないように、いかにもかぼそげに、袖を顔にしながら其処にうずくまっていた。女は相変らず一ことも物を言わなかった。
 夜もすがら、木がらしめいた風が裏山をめぐっていた。その風がやむと、みずうみの波の音がゆうべよりかずっとはっきりと聞えてきた。おりおり遠くで千鳥らしい声がそれに交じることもある。守はいたわるように女をかきよせながら、そんなさびしい風の音などをきいているうちに、なぜか、ふと自分がまだ若くて兵衛佐《ひょうえのすけ》だった頃に夜毎に通っていた或女のおもかげを鮮かに胸のうちに浮べた。男は急に胸騒ぎがした。
「いや、己の心の迷いだ。」男はその胸の静まるのを待っていた。
 突然、男の顔から涙がとめどなくながれて女の髪に伝わった。女はそれに気がつくと、いかにも不審に堪えないように、小さな顔をはじめて男のほうへ上げた。
 男は女とおもわず目を合わせると、急に気でも狂ったように、女を抱きすくめた。「矢張りおまえだったのか。」
 女はそれを聞いたとき、何やらかすかに叫んで、男の腕からのがれようとした。力のかぎりのがれようとした。「己だと云うことが分かったか。」男は女をしっかりと抱きしめた儘、声を顫《ふる》わせて言った。
 女は衣《きぬ》ずれの音を立てながら、なおも必死にのがれようとした。が、急に何か叫んだきり、男に体を預けてしまった。
 男は慌てて女を抱き起した。しかし、女の手に触れると、男は一層慌てずにはいられなかった。
「しっかりしていてくれ。」男は女の背を撫でながら、漸っといま自分に返されたこの女、――この女ほど自分に近しい、これほど貴重《だいじ》なものはいないのだということがはっきりと身にしみて分かった。――そうしてこの不為合せな女、前の夫を行きずりの男だと思い込んで行きずりの男に身をまかせると同じような詮《あき》らめで身をまかせてい
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