姨捨
堀辰雄
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)上総《かずさ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)此頃或|右馬頭《うまのかみ》の息子
−−
わが心なぐさめかねつさらしなや
をばすて山にてる月をみて
よみ人しらず
一
上総《かずさ》の守《かみ》だった父に伴なわれて、姉や継母などと一しょに東《あずま》に下っていた少女が、京に帰って来たのは、まだ十三の秋だった。京には、昔気質《むかしかたぎ》の母が、三条の宮の西にある、父の古い屋形に、五年の間、ひとりで留守をしていた。
そこは京の中とは思えない位、深い木立に囲まれた、昼でもなんとなく薄暗いような処だった。夜になると、毎晩、木菟《ずく》などが無気味に啼《な》いた。が、田舎に育った少女はそれを格別寂しいとも思わなかった。そうして其屋形にまだ住みつきもしないうちから、少女は母にねだっては、さまざまな草子を知辺から借りて貰ったりしていた。京へ上ったら、此世にあるだけの物語を見たいというのは、田舎にいる間からの少女の願だった。が、まだしるべも少い京では、少女の心ゆくまで、めずらしい草子を求めることもなかなかむずかしかった。
国守までした父も、母と同様、とかく昔気質の人だったから、京での暮らしは、思ったほど花やいだものではなかった。が、少女はそういう父母の下で、いささかの不平も云わずに、姉などと一しょにつつましい朝夕を過ごしていた。「もっと物語が見られるようになれば好い」――只、少女はそう思っていた。
その年の末、一しょに東にも下っていた継母が、なぜか、突然父の許《もと》を去って行った。翌年の春には又、疫病のために気立のやさしかった乳母も故人になってしまった。此頃或|右馬頭《うまのかみ》の息子がおりおり姉の許に通ってくる外には、屋形はいよいよ人けのなくなるばかりだった。が、当時何よりも少女の心をいためたのは、「これを手本になさい」と云われて少女が日毎にその御手を習いながら、人知れず物語の主人公に対するようなあくがれの心を抱いていた、侍従大納言の姫君までが、その春乳母と同じ疫病に亡くなられてしまった事だった。「とりべ山谷に煙のもえ立たばはかなく見えし我と知らなむ」――少女が日頃手習をしていた姫君の美しい手跡にそんな読人《よみびと》しらずの歌なんぞのあったのが、いまさら思い出されて、少女には云いようもなく悲しかった。
が、そういう云いしれぬ悲しみは、却《かえ》って少女の心に物語の哀れを一層|沁《し》み入《い》らせるような事になった。少女はもっと物語が見られるようにと母を責め立てていた。それだけに、其頃田舎から上って来た一人のおばが、源氏の五十余巻を、箱入のまま、他の物語なども添えて、贈ってよこして呉れたときの少女の喜びようというものは、言葉には尽せなかった。少女は昼はひねもす、夜は目の醒《さ》めているかぎり、ともし火を近くともして几帳《きちょう》のうちに打ち臥しながら、そればかりを読みつづけていた。夕顔《ゆうがお》、浮舟《うきふね》、――そう云った自分の境界にちかい、美しい女達の不しあわせな運命の中に、少女は好んで自分を見出していた。いままだ自分は穉《おさな》くて、容貌もよくはないが、もっとおとなになったら、髪などもずっと長くなり、容貌も上がって、そういう女達のようにもなれるかも知れないなどと、そんな他愛のない考も繰り返し繰り返していたのだった。
古い池のほとりにある、大きな藤は、春ごとに花を咲かせたり散らしたりした。そのたびに、少女は乳母の亡くなったのは此頃だと悲しく思い出し、又、同じ頃亡くなった侍従大納言の姫君の手跡を取り出しては、一人であわれがったりしていた。そんな五月の或夜、夜ふけまで姉と二人して物語など見ながら起きていると、少女の身ぢかに、猫の泣きごえらしいものが出し抜けにした。驚いて見ると、かわいい小猫が、どこから来たのか、少女の傍に来ていた。前にいた姉が「誰にも教えないで、私達だけで飼いましょうよ」と云って、傍に寝かせてやると、おとなしく寝ていた。もとの飼主がそれを捜していて、見つかりでもするといけないと思って、二人だけでこっそりとそれを飼ってやっていると、猫はもう婢《はしため》たちの方へは寄りつきもせず、いつも二人にばかり絡みついていて、物もきたなげなのは顔をそむけて食べようともしなかった。
一度、姉がわずらって、何かと手が無かったものだから、その猫を婢たちのいる北面《きたおもて》にやり放しにして置いたことがあった。猫は、その間じゅう、北面の方で苦しそうに泣きつづけていた。――すると、わずらっていた姉がふいと目を醒《さ》まして、「猫はどこにいるの。こっちへよこしておくれ」と云うので、「どうかなすって」と少女が云うと、姉はいましがた見た夢を話した。なんでもその猫が寝ている姉の傍らに来て、こんな事を言ったのだそうだった。
「実はわたくしは侍従大納言殿の姫君の生れ変りなのでございます。前世からの因縁がありますのか、この中《なか》の君《きみ》がわたくしの事を大そう哀れがって思い出しなさいますので、只暫くの間、此処に参っておりましたのに、今のように婢たちの中にばかり押し据えられておりましては、なんともつらくてなりませぬ」――一人の品のよい、美しいお方が自分の傍で泣き泣きそんな事を云われているように思って、驚いて目を醒ますと、それはさっきから泣きつづけている猫の声だったと云う事だった。
そんな夢の事があってから、猫はもう北面へも出されずに、今までよりか一層姉妹に大事にかしずかれていた。一人ぎりでいるときなど、よく少女はその猫を撫でながら、「おまえは大納言様のお姫君ですのね。そのうちお父う様からでも大納言様にお知らせ申すようにいたしましょうね」と云いかけたりした。すると猫も、気のせいか、それを聞き分けでもするかのように、長泣きなどしながら、いつまでも少女の顔を見かえしていた。
夜なかに急に火事が起って、その三条の屋形が跡かたもなく焼けてしまったのは、その春の末の事だった。その火事と共に、大納言の姫君と思われて可哀がられていた猫もゆくえ知れずになってしまった。――ひとまず、立退いた先の屋形は、非常に狭苦しくて、木なんぞはなんにも無かった。そのかわり、隣家の生い茂った木立が目のあたりに見え、何かの花の匂などが風につれてこちらまで漂って来るにつけても、少女は昔の木立の多かった屋形を、――又、それと一しょに焼け死んだのかも知れない猫の事などを、切ない程あざやかに蘇《よみがえ》らせたりしていた。
或月あかりの夜、おおかたの人が寝しずまった夜なかまで、少女は姉と一しょに起きて、その家の端近くに出て物語などしあっていた。そのうち話もと絶えがちになって、二人は黙って空をじっと仰いでいた。
「このまま私がすうと飛び失せて、ゆくえ知れずになってしまったら、どうだろうか知ら」姉が出し抜けにそんな事を口にした。
少女はおそろしそうに顔を伏せた。穉い頃、死んだ乳母から聞かされた、女が一人ぎりで長いこと月に照らされていると物に憑《つ》かれるなんぞと云う話を急に思い出したからだった。姉はそういう少女に気がつくと、わざとらしく笑いながら、何か外の事に云いまぎらわせようとした。が、少女はすっかり怯《おび》え切《き》って、いつまでも顔を袖にしていた。
程経て、隣りの家の前に男車らしいものの駐《と》まる音がした。そうして「荻の葉、おぎの葉」と呼ばせているのが手にとるように聞えて来た。が、隣家からは誰もそれに返事をしないらしかった。とうとう男は呼びわずらったらしく、こん度は笛をおもしろく吹き出した。
姉妹は思わず目を見合せて、ようやく明るい微笑《ほほえみ》を交しながら、なおも息をつまらせて耳を欹《そばだ》てていた。しかし、隣家からは、相不変《あいかわらず》、なんの返事も無いらしかった。男はとうとう、笛を吹き吹き、その家の前を通り過ぎて往った。――
互に慰めもし、慰められもしたそんな一人の姉が、佗《わ》びしい仮住の家で、二番目の子を生んで亡くなったのは、それから間のない事だった。母なんぞがその死んだ姉の傍に往ってしまっている間、少女はひとりで、形見に残った穉い児たちを左右に寝かしつけていた。知らぬ間に荒れた板葺《いたぶき》のひまから月が洩れて、乳児《ちご》の顔にあたり、それを無気味に青ざめさせていた。少女はふいと前の月夜の事を思い出し、その顔へ自分の袖をかけてやりながら、いま一人の穉児《おさなご》をひしと抱き締めて、其処にいつまでも顔を伏せていた。
二
新しい普請の出来上った三条の屋形では、古い池と共に焼け残った藤が、今年はどういうものか、例年になく見事な花をつけた。それが一層屋形の人けの絶えたのを目立たせているような単調な日々の中で、少女は又昔のとおりに、物語を見ては、夢みがちに暮らしていた。昔風の父母は、勿論、まだこの少女を誰かにめあわせようなぞとは考えもしなかった。が、さすがに少女ももう大ぶおとなびては来ていた。
父が或秋の除目《じもく》に常陸《ひたち》の守《かみ》に任ぜられた時には、女《むすめ》はいつか二十になっていた。女はこん度は母と共に京に居残って、父だけが任国に下ることになった。「ことによると、もうお前達にも逢えないかも知れない」――そんな心細そうな事ばかりを云っている年老いた父を一人で旅に出すのは、勿論、女には何よりもつらかった。が、すっかりおとなになった女の身としては、父と一しょにそんな田舎へ下ることも出来悪《できにく》かった。
或風立った日、父が京に心を残し残し常陸へ下って往った後、女はもう物語の事も忘れてしまったように、明け暮れ、東の山ぎわを眺めながら暮らしていた。「今頃お父う様はどこいらを旅なすっていらっしゃるだろう」と、穉い頃|東《あずま》から上ってきた遠い記憶を辿《たど》りながら、その佗びしい道すじの事を浮かべていると、父恋しさは一層まさるばかりだった。朝がた、東の方の黒ずんだ森から、秋の渡り鳥らしいのが一群、急に思い出したように一しょに飛び立って、空を暗くしては山の彼方へ飛び去って往くのなんぞを、女は何がなしいつまでも見送っていた。
晩秋の一日、女は珍らしく思い立って、太秦《うずまさ》へ父の無事を祈りに、ひとりで女車に乗って出掛けた。一条へさしかかると、その途中に、物見にでも出掛けるらしい一台の立派な男車が何かを待ちでもしているように駐まっていた。女が簾《みす》を深く下ろさせたまま、その前を遠慮がちに通り過ぎて往ってから、暫くして気がつくと、さっきの男車らしいものが跡から見え隠れしながら附いて来ていた。女はそれを気にするように、すこし車を早めながら、太秦まで往き著《つ》いて寺にはいってしまうと、いつかもうその男車は見えなくなっていた。しかし、寺に数日|籠《こも》って、父の無事を一心になって祈っている間も、どうかすると女にはあの立派な男車がおもかげに立って来てならなかった。「若《も》しかしたら――」が、女はそんな考えを逐い退けるように、顔を振って、ひたすら父の無事を祈っていた。
丁度その頃、父は遠い常陸の国に、供者《ぐしゃ》もわずか数人具したぎりで、神拝をして巡っていた。一行はその日の暮、一つの川を真ん中に、薄赤い穂を一面になびかせている或広々とした芒野《すすきの》を前にしていた。その芒野の向うには又、こんもりと茂った何かの森が最後の夕日に赫《かがや》いていた。
国守は、なぜか知ら、突然京に残した女《むすめ》の事を思い出していた。そうして馬に跨《またが》ったまま、その森の方へいつまでも目を遣っていた。そのうち何処から渡って来たのか、一群の渡り鳥らしいものが、その暮れがたの森の上に急に立ち騒ぎ出した。国守は、その鳥の群がようやくその森に落《お》ち著《つ》いてしまうまで、空《うつ》けたようにそれを見つづけていた。
三
それから五年立った秋、父は漸《や》っと
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング