任を果して、常陸から上って来た。兎に角無事に任を果して来たと云うものの、父はいたいたしい程、窶《やつ》れていた。そうしてもう、こん度の上京かぎり、官職からも身を退いて、妻や女を相手に、静かに月日を送りたいと云うより外は何も考えないでいるらしかった。それ程|老《お》い耄《ほう》けたように見える父は、女にはいかにも心細かった。女はもう自分の運命が自分の力だけではどうしようもなくなって来ている事に気がつかずにはいられなかった。しかし、そういう境界の変化も、此女の胸深くに根を下ろしている、昔ながらの夢だけはいささかも変えることは出来なかった。女は自分の運命が思いの外にはかなく見えて来れば来る程、一層それを頼りにし出していた。「こういう少女らしい夢を抱いたまま、埋もれてしまうのも好い」――そうさえ思って、女は相不変《あいかわらず》、几帳《きちょう》のかげに、物語ばかり見ては、はた目にはいかにも無為な日々を送っていた。
「そうやってなんにも為ずにいらっしゃるよりは――」と云って、此頃しきりに宮仕えを勧めて来る人があった。幾らか縁故もあるその宮からも、是非女を上がらせるようにと再三云ってよこしたりした。その宮というのは、今をときめいている一の宮だった。が、昔気質《むかしかたぎ》の父母は、何かと気苦労の多い宮仕えには反対だった。女は勿論、父母の意に背いてまで、そんな宮仕えなどに出たいとも思わなかった。しかし、人々が「此頃の若いお方はみんな宮仕えに出たがっておりますよ。そうすれば自然に運がひらけて来る事もありますからね。ともかくも、ためしにお出しになっては――」などと、なおも熱心に勧めて来るので、とうとう父母もその女の行末を案じ、宮にさし出す事に渋々納得した。これまで安らかな無為の中にばかり自分を見出していた女は、急に自分の前に何やら不安を感じながら、それでも外に為様《しよう》がないように人々の云うとおりになっていた。
 人出入の多い宮仕えは、世間見ずの女には思いの外につらい事ばかりだった。もとより、それが物語に描いてあるようなものではない事は、女も承知していた。が、冬の夜など、御前の近くに、知らない女房たちの中に伏しながら、殆どまんじりともしないでいる事が多かった。そうして女は夜もすがら、池に水鳥が寝わずらって羽掻《はが》いているのを耳にしたりしていた。又、昼間、自分の局《つぼね》に下がっている時には、ひねもす、此頃自分の事をいかにも頼りにし切っているような老いた父の姿などを恋しく思い浮べていた。亡き姉の遺児たちも、夜は大がい自分の左右に寝かすようにしていたのに、今はどうしているだろうと気がかりになってならない事もあった。が、そんな人知れない思いさえ、傍から人に、見られているかと思うと、どうも気づまりで思うようには出来悪《できにく》かった。
 ときおり女が三条の屋形に下がって往くと、父母は炭櫃《すびつ》に火など起して、女を待ち受けていた。「おまえがいてお呉れだった時は、人目も見え、婢《はしため》たちも多かったが、此頃というものは、殆ど人けが絶えて、一日じゅう人ごえもしない位だ。ほんとうに心細くって為様がない。こんな具合では、一体、おれ達はどうなるのだろうなあ」そんな事を父は長々と女に云って聴かすのだった。御前などでは、他の女房たちの蔭に小さくなって、殆どあるかないかにしているのに、そんな自分も里に下りるとこれ程頼もしがられるのかと思うと、そんな事を云う父のみならず、云われる自分までが、なんだかいたわしくってならなかった。
 が、五六日立つと、女は又気を引き立てるようにして、宮へ上がって往くのだった。

   四

 女の仕えていた宮が突然お亡くなりになったのを機会《しお》に、女は暫く宮仕えから退いて、又昔のように父母の下でつつましい朝夕を送り出していた。さすがに宮仕えをした後には、女はもう世の中が自分の思ったようなものではない事をいよいよ切実に知り出していた。薫《かおる》大将だの、浮舟だのが此の世にあり得よう筈がない事もわかり過ぎる位わかって来た。が、一方、女はそういうどうにも為様のないような詮《あき》らめに落ち着こうとしている自分が、却《かえ》って昔の自分よりもふがいなく思えてならなかった。
 その後も宮からは、絶えず女をお召しになっていた。亡くなられたお方の小さい御子達の相手に女の姪たちを連れて来て貰いたいと云うのだった。女はもう自分だけなら、このまま静かに老いるのも好いと考えていた。それ程女は身も心も疲れ切っていた。しかし、漸《ようや》くおとなびて来た姪たちの事を考えると、此子達だけは自分のようにさせたくないと、折角の宮からのお召を拒みかねて、二人に附添ってはおりおり又出仕をするようになった。が、こん度は女は宮でもまるっきり新参というのでもなく、そうかと云って又古参という程でもないので、只なんという事なしに女房たちの中に雑《ま》じって、もとの朋輩《ほうばい》たちと気やすく語らってさえいれば好かった。もう別に宮仕えだけで身を立てようなどともしていないので、外の女房たちが自分よりも上の思召《おぼしめ》しが好かろうと羨《うらや》ましいとも思わなかった。そうして、古参の女房からいろんな昔の知りびとの噂などを聞いては、それを淡々と聞き過していた。一方、こうして此頃のように自分がそれに即《つ》かず離《はな》れずの気もちでいられるようになってから、漸く宮仕えと云うものの趣を自分でも分かりかけて来たような気もしないではなかった。
 或冬の暗い夜の事だった。上では不断経が行われていたが、丁度声のよい人々が読経する時分だというので、一人の女房に誘われるまま、女はそちらに近い戸口に往って、そこに伏しながら、それを聴いていた。暫くそうして聴いていると、其処へ殿上人らしい男が一人、そういう二人には気がつかないように近づいて来た。
「どなただか知らないけれど、急に隠れたりなんぞするのも見ぐるしいから、このままこうして居りましょう」と、相手の女房が云うので、その傍に女もじっと伏せていた。
 その男は、戸口の近くにそういう二人を認めると、前からの知合らしい一方の女房に向かって、非常に穏かな様子で詞《ことば》をかけた。「いまお一人はどなたですか――」などとも問うたが、女が困って何んとも返事をせずにいても、それ以上|執拗《しつよう》には尋ねなかった。そうしてそのまま二人の傍にすわりながら、そのどちらに向かってともつかず、世の中のあわれな事どもをそれからそれへと言い出して、女達にも真面目に問いかけたりするので、女もついそれに誘われて、いつか二こと三こと詞《ことば》を交わしていた。「まだ私の知らないこういうお方がいられたのですね――」などと珍らしそうに男は女の方を向いて云って、いつまでも気もち好さそうに話し込み、なかなか其処を立ち上がりそうにもなかった。
 星の光さえ見えない位に真っ暗な晩で、外にはときどき時雨《しぐれ》らしいものが、さっと木の葉にふりかかる音さえ微かにし出していた。「こういう晩もなかなか好いものですね。」男はそう云いさして、微かに木の葉にかかる時雨の音に耳を傾けながら、急に何か考え出したように沈黙していたが、それから徐《しず》かにこんな事を語り出した。
「どうした訳ですか、私は今ふいと十七年ほど前の或晩の事を思い出しておりました。それは私が斎宮《さいぐう》の御|裳著《もぎ》の勅使で伊勢へ下った折の事です。伊勢に上っておる間、殆ど毎日、雪に降りこめられておりました。ようやく任も果てたので、その明けがた京へ上ろうかと思って、お暇乞《いとまごい》に参上いたしますと、ただでさえいつも神々しいような御所でしたが、その折は又|円融院《えんゆういん》の御世からお仕えしているとか云う、いかにも神さびた老女が居合わせて、昔の事などなつかしそうに物語り出し、しまいにはよく調べた琵琶までも聞かせてくれました。私もまだ若い身空でしたが、何んだかこうすっかりその琵琶の音が心に沁《し》み入《い》って、ほんとうに夜の明けるのも惜しまれた位でした。――それからというもの、私はそんな冬の夜の、雪なんぞの降っている晩には極まってその夜の事を思い出し、火桶《ひおけ》などかかえながらでも、かならず端近くに出ては雪をながめて居ったものでした。――そんな若い時分の事もこの頃ではつい忘れがちになっておりましたのに、今、こうしてあなた達と話し込んでいますうち、その夜の事が急になつかしく思い出されて来たのです。どういう訳のものでしょうか。――そう云えば、今宵もこれ程私の心に沁み入っていますので、これからはきっとこんな真暗な、ときどき打ちしぐれているような冬の夜の事も、その斎宮の雪の夜と一しょに、折々なつかしく思い出される事でしょう。……」
 男はそんな問わず語りを為はじめた時と少しも変らない静かな様子で、それを言《い》い畢《お》えた。
 男が程経て立ち去った跡、女達はそのままめいめいの物思いにふけりながら、いつまでも其処にじっと伏せていた。雨は、木の葉の上に、思い出したように寂しい音を立て続けていた。

   五

 こんな事があってからも、女が何かと里居がちに、いかにも気がなさそうな折々の出仕を続けていた事には変りはなかった。が、出仕している間は、いままでよりも一層、他の女房たちのうちに詞少《ことばすくな》になって、一人でぼんやりと物など跳めているような事が多かった。しかし、何かの折にいつかの女房と一しょになりでもすると、互に話もないのにいつまでもその女房の傍にいて何か話をしていたそうにしていたり、又、相手があの時雨の夜の事をそれとなく話題に上そうとでもすると、慌ててそれを他に外らせようとしたりした。しかし、女はいつかその男が才名の高い右大弁《うだいべん》の殿である事などをそれとはなしに聞き出していた。――そうやって宮に上っていても何か落ち着きを欠いている女は、里に下りて、気やすく老いた父母だけを前にしている時は、一層心も空のようにして、何か問いかけられても返事もはかばかしくなかったりした。そうして一向《ひとむき》になって何かを堪え忍んでいるような様子が、其頃から女の上には急に目立ち出していた。

 右大弁はときどき友達と酒を酌んでいる時など、ひょいとその時雨の夜の事、――それからそのとき語り合った二人の女のうちの、はじめて逢った方の女の事なぞを思い浮べがちだった。男は勿論、外にも幾たりかの女を知っていた。又、大方の女というものがどういうものであるかも知悉《ちしつ》した積りでいた。――しかし、その時雨の夜のように、何ぶん暗かったのでその女の様子なんぞよく見られなかったせいもあるかも知れないが、その女といかにもさりげなく話を交していただけで、何かこう物語めいた気分の中に引《ひ》き摩《ず》られて行くような、胸のしめつけられる程の好い心もちのした事などはこれまでついぞ出逢ったことがなかった。何かと云えばいま一人の女房を立てて、自分はいかにも控え目にしていた、そんな内端《うちわ》な女のそういう云い知れぬ魅力というものは何処から来るのだろうかと、男は自問自答した。もう一度で好いから、あの女と二人ぎりでしめやかな物語がして見たい。私の琵琶を聞かせたらどう聞くだろうか、――此頃になくそんな若々しい事まで男は思ったりもしていた。しかし、男は何かと公儀の重い身で多忙なうちに、その女の事も次第に忘れがちになって往った。――が、ときどき友達と酒でも酌んでいるような時に、思いがけずふいとその髣《ほの》かに見たきりの女の髪の具合などがおもかげに立って来たりした、……。

 その翌年の春だった。或夜、右大弁は又その一の宮に音楽のあそびに招かれて往っていた。暁がた、男は一人で庭に降り立って、ほんのりとかかった繊《ほそ》い月を仰ぎ仰ぎ、読経などをしながら、履音《くつおと》をしのばせてそぞろ歩きしていた。細殿《ほそどの》の前には丁子《ちょうじ》の匂が夜気に強く漂っていた。男はそれへちょっと目をやりながら、遣戸《やりど》の
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