まうと、いつかもうその男車は見えなくなっていた。しかし、寺に数日|籠《こも》って、父の無事を一心になって祈っている間も、どうかすると女にはあの立派な男車がおもかげに立って来てならなかった。「若《も》しかしたら――」が、女はそんな考えを逐い退けるように、顔を振って、ひたすら父の無事を祈っていた。

 丁度その頃、父は遠い常陸の国に、供者《ぐしゃ》もわずか数人具したぎりで、神拝をして巡っていた。一行はその日の暮、一つの川を真ん中に、薄赤い穂を一面になびかせている或広々とした芒野《すすきの》を前にしていた。その芒野の向うには又、こんもりと茂った何かの森が最後の夕日に赫《かがや》いていた。
 国守は、なぜか知ら、突然京に残した女《むすめ》の事を思い出していた。そうして馬に跨《またが》ったまま、その森の方へいつまでも目を遣っていた。そのうち何処から渡って来たのか、一群の渡り鳥らしいものが、その暮れがたの森の上に急に立ち騒ぎ出した。国守は、その鳥の群がようやくその森に落《お》ち著《つ》いてしまうまで、空《うつ》けたようにそれを見つづけていた。

   三

 それから五年立った秋、父は漸《や》っと
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